「自分はこの電報が送られた父島側にいた兵士の孫だ。今なお硫黄島側に残されたままの戦没者は、いわば祖父の仲間たちだ。硫黄島の戦禍の社会的記憶の風化に抗う記者になろう。そして僕自身も遺骨収集団にボランティアとして加わり硫黄島の土を掘ろう。天国の祖父も、お父さんも喜んでくれるはずだ」

 収集団参加が実現するまで13年の年月を要した。実現のために、転職もした。一度は志を断念しかけたこともあった。

 ともあれ、2019年9月25日午後1時17分。父島兵士の孫を乗せた自衛隊輸送機C130は、硫黄島の滑走路に着陸した。

 機体の扉が開くと、南国特有の湿気を含んだ温い空気が入ってきた。秋の乾いた本土の空気とはあまりにも違う。客室乗務員役の男性隊員に促され、僕が降りる順番が回ってきた。

 これから踏むことになる滑走路の下には、遺骨が多数眠っているとされている。降り立とうとした僕は、足を1回、引っ込めた。どのように最初の一歩を踏み出せばいいのか、戸惑ったからだ。そのとき、思い出したのは最後の電報だった。そして僕は心の中で“返電”しながら、上陸することにした。

「硫黄島ノ皆サン コンニチハ 父島ノ兵士ノ孫ガ 迎エニ来マシタヨ サア一緒ニ本土ニ帰リマショウ」

硫黄島にはなぜ
「首なし兵士」が多いのか

 遺骨収集作業は上陸翌日に始まった。

 壕の入り口付近で見つかったその兵士の遺骨は、頭だけが粉々だった。

「頭がそっくりない遺体が多い島なんだよ」

 約10年前から毎年、遺骨収集に参加している神奈川県のベテラン団員の水野勇さん(74=年齢はいずれも当時=)がそうこぼした。

 一部の骨片には鉄が付いていた。近くでは手榴弾の破片も見つかった。

 ここは硫黄島の北端。「矢弾尽キ果テ散ルゾ悲シキ」との訣別電報などで知られる硫黄島守備隊の最高指揮官栗林忠道中将がいた司令部壕から400メートル北東側だ。1932年ロサンゼルス五輪馬術金メダリストで戦車部隊を率いたバロン西(西竹一男爵)が消息を絶ったと伝えられる地からも近い。

「首なし兵士」は追い詰められて、手榴弾を頭に当てて爆発させ、自決したのだろうか。