アメリカ海兵隊の創設以来、もっとも過酷だったとされるのが、1945年の硫黄島をめぐる戦いだ。攻めるアメリカは3万弱の戦死・戦傷者を出す大損害をこうむったが、一方、2万の兵で守る日本軍の致死率は95%にものぼり、生還者はわずか1000人ほど。そして戦後70年以上が経過した今、日本の元兵士に直接取材をするのは不可能に近い。そんな中、激戦前夜の硫黄島を知る元陸軍伍長の西進次郎さんにお話を聞く機会を得た。9回にわたる電話取材の様子を、ここに報告する。※本稿は、『硫黄島上陸 友軍ハ地下ニ在リ』(講談社)の一部を抜粋・編集したものです。
硫黄島を知る最後の一人であろう
元陸軍伍長の西さん
初めて電話したのは2022年1月23日だった。西さんは99歳で、鹿児島県内の高齢者施設で暮らしていた。
鹿児島県出身、1944年11月に硫黄島に配属。米軍上陸の約1カ月前の翌1945年1月8日に本土に帰還した。だから地上戦は経験していない。
西さんは、僕の話にあいづちを打つとき「はい」ではなく「はっ」と歯切れの良い声を発することが多かった。声の主は間違いなく高齢者だが、「はっ」という返事はまるで現役の兵士のように思えた。そう思ってから、僕は硫黄島の学徒兵と時空を超えて電話で会話しているような感覚になった。電話の向こうにいるのは、鹿児島県在住の西進次郎さんではなく、硫黄島の西進次郎陸軍伍長だった。
1943年12月、中央大学に在学中で20歳だった時、学徒出陣で応召した。帝都の防空任務を帯びた戦闘機部隊「陸軍飛行第二十三戦隊」(本拠地・千葉県)で戦闘機の武装や整備を担当する整備員となった。翌1944年11月、西さんを含む第二十三戦隊は硫黄島に進出することになった。その4カ月前の同年7月、絶対に死守すべき防衛ライン「絶対国防圏」のサイパンが陥落した。サイパンと本土の中間に位置する硫黄島は、この陥落によって、本土防衛の最前線となり、連日、米軍機による激しい空襲にさらされるようになった。第二十三戦隊の進出は、陸海軍合わせて約2万人いる硫黄島守備隊を支援することが目的だった。
窓の外に硫黄島が見えてきたのは、出発から4時間後だった。西さんは島内の状況を肉眼で見て、血の気が引いたという。
「日本を発つときには喜び勇んで行ったんですよね。その硫黄島の負けている状況を見たときにもう顔面蒼白でしたね。もう出発したときの元気は何にもなくなりましたね。敗北を直感しましたね。島の南部には、飛行場を中心に爆撃の穴が隙間なく広がっていました。まるで蜂の巣ですよ。敵は飛行場だけを狙っているということが分かりましたね。南海岸には日本の軍艦が沈められていました。あらゆる島の様子がむちゃくちゃ踏みにじられたという感じでした」
しかし、その思いは到着するやいなや一変した。西さんの絶望感とは裏腹に、出迎えてくれた兵士たちは皆、笑顔で、元気いっぱいだったのだ。