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小笠原諸島最大の島であり、太平洋戦争で亡くなった2万人のうち1万人の遺骨が見つかっていない硫黄島。なぜ日本兵1万人は消えたままなのか?民間人の上陸が原則禁止された硫黄島に4度上陸した新聞記者が綴った“硫黄島の真実”とは?本稿は、酒井聡平『硫黄島上陸 友軍ハ地下ニ在リ』(講談社)の一部を抜粋・編集したものです。

硫黄島戦が生み出した
数多くの「遺児の悲劇」

 僕が硫黄島報道に執念を燃やす理由。その1つは、僕が遺児だからだ。もちろん、戦没者遺児ではない。僕の父は、僕が10歳のときに勤務中に突然死した。別れの挨拶もできぬまま死別した悲しみは、46歳になった今でも癒えない。だからこそ突然、家族を失った人に対して、強烈なシンパシーを僕は抱く。

 硫黄島戦は、遺児の悲劇を多く生み出した。兵士の多くが、全国各地から集められた30代、40代の再応召兵だったからだ。すでに一度、応召を果たしているため、もう戦地に行くことはないだろうと考え、家庭を築いた人は多かったとされている。

 そして戦争の悲劇は代を超える。遺児は父の愛情を受けられず、母は経済的な理由で子供を養子に出さないですむように懸命に働かなくてはならないため、遺児は母と過ごす時間も十分に得られない。「片親」で育った人は当時、就職面などで差別されることが多かった。挫折を味わったり、生活が困窮したりした。さらに、孫たちは祖父の思い出を何一つ持てずに生きることになる。「終戦」とは戦闘の終了に過ぎない。「戦禍」には終わりがないのだ。硫黄島はそんな教訓が刻まれた島なのだ。

 戦没者遺児の三浦さんとの交流は連載終了後も続いた(編集部注/筆者は苫小牧市の地域紙記者時代に、三浦孝治さんの遺骨収集体験を連載していた)。三浦さんが遺骨収集から帰るたびに僕は電話を入れ、島の状況を聞いた。年齢差が40歳以上ある三浦さんと僕は、少年時代に父を失った悲しみを共有する「遺児同士」という絆で結ばれていた。

「アトハタノム」について語った三浦さんの記事同書より転載 拡大画像表示

 三浦さんが最後に見たという父の姿の話も何度も聞いた。1943年、樺太(現サハリン)。当時10歳だった三浦少年は、出征する父を見送るため、港に行った。港から船が離れゆく中、父は甲板上で突然、三浦少年に向かって「手旗信号」の動作を始めた。三浦少年は小学校で手旗信号の基礎を習っていたが、父の信号の意味は分からなかった。

 しかし、戦後、歳を重ねた三浦さんはある日、こう思った。「戦争中は、別れの無念さを口に出せなかった時代だ。『アトハタノム』と父は伝えたかったのではないか」。