ずっと考え抜いて、そうした結論に達したのだ。三浦さんは定年退職で自由な時間を手に入れると、遺骨収集に乗り出した。80代半ばを過ぎても硫黄島の土を掘り続けた。その背景には、父が最後に発した手旗信号に応えたい、という思いがあったのだろう。

「アトハタノム」。三浦さんから知らされた1943年の手旗信号は、時空を超えて、29歳だった僕の心にも深く刻まれた。

筆者を突き動かした
硫黄島発の「最後の電報」

 やがて僕は行動に移したのだった。

 硫黄島についてただ報じるだけでなく、収集活動に取り組む三浦さんの後に僕も続こう。そう一念発起した。手旗信号の話を聞いて以来、硫黄島上陸への思いは募るばかりだった。

 その思いが決定的になる本と僕は出会う。硫黄島守備隊の元参謀、堀江芳孝氏が記した『硫黄島 激闘の記録』(恒文社)だ。堀江氏は米軍が硫黄島に上陸した際、父島に渡っていたため、玉砕を免れて生還した人物だった。僕の祖父もいた父島側の視点から硫黄島戦を記していることが興味深かった。

 硫黄島は本土から1200キロ離れているため、通信隊が本土に電報する際は、父島の通信隊に中継してもらっていた。約280キロ離れた両島の通信隊員はお互いの顔が見えないながらも、連日連夜の交信任務によって結ばれた強い絆があった。

 硫黄島発の最後の電報としては、全滅覚悟で最後の総攻撃に出ることを伝えた栗林忠道中将の「訣別電報」が広く知られている。「国ノ為重キ努ヲ果シ得デ 矢弾尽キ果テ散ルゾ悲シキ」という内容だ。

 しかし『激闘の記録』によると、最後の電報の言葉はこんな内容だったという。

「父島ノ皆サン サヨウナラ」

 もっと生きたいのに生きられなかった人の言葉だと、僕は感じた。勇ましい響きもある「散ルゾ悲シキ」よりも、よっぽど悲しき電報だと思った。妻子ある庶民が全国各地から集められた硫黄島守備隊らしい、最期の言葉だとも思った。

 この電報を頭の中で反芻するうちに、僕はこう思うようになった。