旧軍の戦死者たちの遺骨は、アジア太平洋の各地域で、本土帰還の日を待ちわびている。彼らを捜索する作業は残された者の義務だが、地下に張り巡らされた壕内部に1万柱が埋まっている硫黄島は、とりわけ過酷な現場だ。島に渡った筆者は、初日の現場で大の字に倒れた。一歩間違えれば一酸化炭素中毒になっていたかもしれないという――。本稿は、酒井聡平『硫黄島上陸 友軍ハ地下ニ在リ』(講談社)の一部を抜粋・編集したものです。
遺骨収集団の編成は
高齢者が大半を占める
遺骨収集を所管するのは厚生労働省だ。厚労省が関係省庁や関係団体と調整して年間の計画を取りまとめる。収集団は毎年度、概ね7月、9月、11月、2月の計4回行われる。
1回の派遣期間は約2週間だ。収集団の編成や現地活動は、厚労省から委託を受けた一般社団法人日本戦没者遺骨収集推進協会が行う。協会は収集団の派遣時期が近づくと、戦没者遺族でつくる「日本遺族会」や、硫黄島戦の生還者らが戦後立ち上げた「硫黄島協会」など関係団体に収集団員の推薦を打診する。被推薦者に健康上などの問題がないかを確認した上で収集団員名簿を確定させる。
僕が2019年に初参加したのは「令和元年度第二回硫黄島戦没者遺骨収集団」だ。9月25日から10月8日までの日程で行われた。団員は37人。協会の職員が団長、副団長を務めた。
団員は、日本遺族会と硫黄島協会から各6人、小笠原村在住硫黄島旧島民の会から9人、学生組織であるJYMA日本青年遺骨収集団と国際ボランティア学生協会、隊友会から各2人など。かつては生還者や遺族が大半だったが、近年は生還者の参加が途絶え、遺族の参加も減った。この時、参加した硫黄島戦没者の遺児は4人だけだった。ボランティアも学生組織を除けば、時間に余裕がある60代以上の定年退職者ばかりだった。硫黄島の遺骨収集は、主に高齢者に委ねられているのが実情だった。だからなのか、一度、ほかの団員から「学生さん」と呼ばれたことがある。42歳だった僕は、遺骨収集現場では若手の一人だった。
滞在中は米軍施設で
交流を深める団員たち
収集団一行が宿泊するのは、島中心部の滑走路に隣接する自衛隊の庁舎地区だ。その中にある「BEQ」と呼ばれる2階建ての米軍施設で生活する。BEQは「独身下士官宿舎」(bachelor enlisted man’s quarters)の略称だ。この建物は、訓練で訪れる米軍兵士のためにつくられた宿舎だった。だから、電気のコンセントは米国式で、建物内の掲示物は英語表記が多かった。