学生たちがボランティア活動に打ち込むのはなぜか

 「あーち」を利用する地域住民から、「あーちでボランティアをしてくれる学生さんたちは偉いですね。勉強やアルバイトやサークル活動で忙しいでしょうに」という声を聞くことが多い。そのたびに私は違和感をもつ。ボランティア学生は、特に「偉い」わけではない、と思う。「偉い」という言葉の裏には、「他人のために自分の時間を犠牲にしている」という意味が含まれていると感じるが、「あーち」のボランティア学生が「他人のために」活動しているとはあまり思えないからだ。それよりも、もっと自分自身にとっての必要から活動に参加しているのではないか。

 そこで、「あーち」でボランティア活動に取り組んでいる学生がどのように考えているか、改めてインタビューしてみることにした。坂井真奈美さん(仮名)は、現在、大学2年生である。1年生のときから「あーち」での活動に積極的に参加して、活動のまとめ役も自ら買って出てくれる学生である。私もとても頼りにしている学生なのだが、個人的に話を聞くのは初めてである。

 坂井さんは、「あーち」でのボランティア活動について話を聞きたいというインタビューの趣旨に対して、開口一番、次のように話してくれた。

“「あーち」で出会う人たちのためになりたいという思いは実際にあるので、ボランティアという言葉は嘘ではないんですけど、私にはボランティアをしようという意識はありません。いろいろな人との出会いから学ぼうとしていて、たまたま出会ったのが「あーち」での活動だったということなんです”

 ボランティア活動に参加している学生の多くが、坂井さんのこの発言にうなずくように思う。私自身もボランティア活動をしながらも、「ボランティア」という言葉に違和感をもつことが多かった。「ボランティア」という言葉から、何か特別なことをしているようなニュアンスを感じ、その特別感を否定したい気持ちに駆られる経験は、私にも覚えがある。

 坂井さんにボランティア活動への参加を促しているのは、「成長したい」という本人の思いだ。坂井さんは次のように語ってくれた。

“ボランティア活動でないと出会えない人たちもいます。そういう人たちとの出会いから学んでいるという実感があります。その学びというのは、大学での知識ベースの学びとは違う種類の学びです。私の場合、「あーち」での活動を通して、「あーち」を必要としているたくさんの人たちと出会い、その人たちのつぶやきを聞いてきました。そうした中で、居場所ってなんだろう?という問いに答えるヒントをもらっているように思います”

 同様の語りは、これまで多くのボランティア学生から聞いてきた。例えば、大学で障がい児教育について学んでいる学生は、大学の授業での抽象的な話をつなぎあわせて浮かび上がる障がい児の姿と、実際に「あーち」で出会い、深く関わった障がい児の姿とはまるで異なっている、と語ってくれたことがある。「あーち」で出会う障がい児は、一人ひとりで特徴が異なるし、好きなものも嫌いなものも異なる。桜の絵を見るだけでパニックになる子どももいたし、人の顔と仮面の区別がつかない子どももいて、節分で学生が鬼のお面を被ったところ、大混乱に陥ったこともある。生身の人との関わりの中で、さまざまなできごとに遭遇し、試行錯誤しながらそのできごとに対処していくのが、「あーち」での活動の中身だ。確かに、そうやって得られる気づきは、大学の授業で得られる学びとは異なるに違いない。

 すなわち、「あーち」でのボランティア活動で学生たちが向き合っているのは、「あーち」で出会う人であると同時に、自分自身なのだ。「あーち」での活動によって自分自身が揺さぶられ、何かを得ているという手応えが、学生たちのボランティア活動の原動力になっている。

 私自身の学生時代を振り返っても、確かにそうだった。現場の人と関わりあい、自分自身が揺さぶられ、成長に結びついていると実感できるとき、ボランティア活動の満足度が高かった。逆に、現場で「人手」として扱われ、誰かと深く関わりあう機会もなく、指示されるままに動くようなボランティア活動は、人の役に立っているには違いないけれども、私の中に空虚感しか残らなかった。人の役に立つことで自分が満たされる、というボランティアもいるかもしれないが、私はそうではなかった。