ボランティア活動に参加した背景を探ることの価値

 ボランティア活動は、自主性・連帯性・無償性・先駆性といった性格をもつとされる。韓国では、ボランティア活動を「奉仕活動」と表現する。日本でも、学校での「奉仕活動の義務化」が議論されたことがある。ボランティア活動は無償奉仕だという観念があり、それゆえに利他的で尊い活動だとイメージされがちである。その延長に、学校でも企業でも、ボランティア活動経験を評価しようという動きも生まれる。しかし、ボランティア活動を無償奉仕と捉え、それゆえに社会的な評価が与えられるとした途端、ボランティア活動に参加するに至った個々人の必然性は無視されることになり、評価を得るためという動機だけが生き残ることになってしまう。

 ボランティア活動への参加は、それぞれの人にとっての必然性があり、参加自体にその人の生きざまが反映されている。つまり、ボランティア活動への参加の背景には、個人的で利己的な動機がある。その個人的で利己的な動機ゆえに、ボランティア活動の現場での出会いが意味を持ち、ボランティア活動での経験がその人の生きざまを表すようになっていく。

 学生時代の私の友だちの中に、「ボランティア活動をすると、かわいい女の子に出会える」という理由でボランティア活動に参加している男子学生がいた。その学生は、女子たちの関心を惹くためかどうかわからないが、一生懸命に活動をして格好いいところを周囲にアピールしていた。現場の誰しもがこの学生を微笑ましく応援していた。現場の人たちは皆、ボランティア活動を奉仕などとは思っていなかったのだと思う。それぞれに異なる動機や背景をもつ多様な人たちが参加し、一緒に活動する中で相互の関係が生まれ、深まり、それぞれの中に気づきが生まれ、学びが共有されていく。そのような過程に価値が置かれていた。ボランティア活動とは、そのようなものなのだと思う。

「あーち」での活動が無償奉仕だというイメージがあったとしたら、そのイメージはボランティア学生たちから力を奪ってしまうのではないか。かつて、「あーち」に来ていた人の中に、「女子学生と付き合いたいのに、それを妨害する津田は障がい者差別をしている」と訴えて、行政や大学に盛んに苦情の申し立てをしていた男性がいた。無償奉仕という言葉は、奉仕する側が奉仕される側に文句を言わずに従うというイメージまでつくってしまう。「付き合って」と迫ってくるその男性を拒絶する自分は不正義なのではないか、と思い悩む女子学生さえいた。

 坂井さんもインタビューの中で、次のように訴えていた。

“ボランティアという言葉に囚われずに、その人がどういう背景の中をどう生きてきたかを考えてもらえたら嬉しいです。ボランティア活動はその人の生き方の中に位置づいているはずですから”

 この訴えは、企業の採用面接などで、ボランティア活動を経験してきた学生に向き合う面接員の方たちにも聞いてもらいたい主張である。ボランティア活動に参加して、どのような大切な出会いがあったのか、その出会いはその人の生きざまの中にどのように位置づいているのか、ということに関心を向けてもらいたい、という主張である。ボランティア活動を経験してきた学生が入社面接にやってきたとしても、「意識高い系の学生」「偉い学生」などと安易に捉えないで、その学生の生きざまそのものに関心を寄せてもらいたい。学生は、ボランティア活動という「やらなくてもよかった」活動にわざわざ参加しているわけだから、参加した動機や背景を掘り下げてみる価値があるのではないかと思う。

挿画/ソノダナオミ