ボランティア活動への参加を促しているものは…

「あーち」でのボランティア活動に参加するようになった背景について、坂井さんに尋ねてみた。すると、「あーち」のチラシを見てふらりと立ち寄ってみたのが始まりだと答えてくれた。では、なぜ、ふらりと立ち寄ってみようと思ったのか、とさらに掘り下げたところ、坂井さんは高校時代の経験について語ってくれた。

“高校生のとき、不登校になりそうになったことがあったんです。担任の先生がそれを察してくれて、スクールカウンセラーに会うことになったんです。スクールカウンセラーの方に私の話を聞いてもらって、それはそれでよかったんですが、その一方で、話をしているだけでは何も始まらないよなあ、とも感じたんです。私、それまでは理系だったんですが、その経験を経て文転したんですよ。文系の大学に進んで、活動を生み出す場づくりをテーマに学ぶことにしたんです”

「あーち」に「ふらりと立ち寄った」という語り口からは、坂井さんと「あーち」との出会いの偶然性を感じたが、偶然を招き入れた原因をさかのぼると、坂井さんは「あーち」に出会うべくして出会ったという気がしてくる。大切な人、もの、できごととの出会いというものは、得てしてそういうものかもしれない。

 偶然の背景にある必然の中には、何らかの傷つき体験も含まれる。坂井さんが「不登校になりそうになった」というできごとを、「あーち」と出会うまでの歴史の出発点に置いていることに、大きな意味があるように感じる。そういえば、「あーち」と出会った学生たちの多くが、過去の傷つき体験について語っていたことを思い出す。子ども時代に慢性的な疾患があって寂しい思いをしたことのある学生、出生前診断で遺伝性の障がいがある可能性があると医師から伝えられながら生まれてきた学生、不登校経験のある学生、いじめられた経験のある学生、親との関係がうまくいかない学生、障がいのある友だちとの不本意な別れを経験した学生……。

 傷つき体験は、自分の中に納得できない疑問を残す。例えば、「なぜ、よりによって、私がこんな目に遭うのか」「なぜ、おとなたちは私を救うことができなかったのか」「なぜ、社会は人を不平等に扱うのか」といった疑問である。そうした疑問をもった記憶が、疑問を晴らすための行動へと、私たちを走らせるのかもしれない。ボランティア活動への参加を、傷つき体験で生じた疑問を晴らそうとする無意識的な行動と考えると、納得できる場合がある。

 振り返ってみれば、私自身のボランティア活動体験も自らの傷つき体験とつながっていたかもしれない。私の父が若い頃に重い障がいを負ったことと、物心のついた私が障がい者と関わるボランティア活動に参加していたこととは、つながりがあるように感じてきた。とはいえ、親不孝を繰り返してきた私にとって、そのつながりは単純なものではないとも思う。「父が障がいを負ったことで障がいの問題に目覚めた」というつながりは、私の心情をまったく表していない。むしろ、親不孝を繰り返してきた私自身への疑問が、私の行動を導いていたと説明したほうが、しっくりくる。さらに言葉を重ねるならば、父への嫌悪感という形で私自身が体現してしまっていた障がい者差別に向き合わざるをえないという意識が、ボランティア活動への参加を促していたのではないか、ということでもある。

「あーち」のボランティア学生たちも、ボランティア活動に参加するという行動には、その学生の置かれている状況や、積み残してきた過去など、それぞれの背景があるのだろう。それは、「あーち」でのボランティア活動に限らない。坂井さんが音楽サークルでも活動をしているということ、ちょうどこのインタビューの翌日から能登半島地震の復興支援ボランティアに向かうことにも、坂井さんの生きざまの中に一貫する必然性があるのではないだろうか。