豊島岡女子学園写真はイメージです Photo:PIXTA

全国的に高校共学化の波が押し寄せる昨今、女子校に通う優秀な生徒は、西のスーパーエリートが集まる京都大学をどう見ているのか。過去70年分の高校別合格者数ランキングをなぞりながら、合格者の声を拾った。※本稿は、小林哲夫『京大合格高校盛衰史~天才たちは「西」を目指した~』(光文社新書)の一部を抜粋・編集したものです。

女子の大学進学率が1桁台の時代に
灘と甲南に次ぐ結果を残した神戸女学院

 1949年、最初の京都大合格者1529人のなかに女子は53人、入学したのは15人だった。出身高校名は不明だが、新制高校卒は383人しかいない。それゆえ、おそらく女子の多くは旧制の高等女学校卒だろう。51年、大学新聞で女子学生座談会を行っている(「学園新聞」51年)。このうち、2人は同志社女子専門学校(同志社女子大の前身)出身である。

 京都大合格者で女子校出身者が初めて登場したのは、確認できる限り、54年の京都女子である。51年、女子の高校進学率は39.6%、54年の大学進学率は2.4%となっており、女子のなかでもエリートといってよい。京都大に娘が通う家庭に先進性を感じる。

 1950年代半ば、京都大に女子学生はすこしずつ増えるが、それを引っ張ったのが文、教育、薬学部だった。52年、薬学部合格者の上位成績者は女子で占められていた。こんな記録が残っている。

「薬学科入学者50名のうち2番から13番までズラリと12人を女子で占めたという実績があるから、質において男子受験生も油断できない」(「螢雪時代」1953年6月号)。

 この時代、書き手から男尊女卑感が漂う。なお、12人のなかに女子校出身者はいなかった。

 当時、大学入試では進学適性検査を受けることになっていた。この頃、神戸女学院は進学適性検査で抜群の成績をあげている。学校史によれば、1950年の進学適性検査では同校生徒が兵庫県でトップだった。

「(昭和)28年(1953年)には104人受験し、女学院の平均点は45.1で県下最高の灘高等学校の49.5、甲南高等学校47.4についで3位だった。(略)28年3月の大阪大学文学部の入学試験では本学院出身者がトップの成績であったという」(『神戸女学院百年史 総説』1976年)。

 57年、神戸女学院から初めて京都大に合格者を出した。

図表:京都大に強い女子校累計1964-1993-1994-2023同書より転載 拡大画像表示