裕福な家庭のお嬢さまたちの目が
京都大学に向き始めた1960年代

 1956年文学部121人うち女子15人、医学部薬学科40人うち女子10人だった。同志社女子高校から3人合格しており、医学部薬学科2人、文学部1人となっている。

 1960年前後から同志社女子、神戸女学院、ノートルダム女学院(京都)、ノートルダム清心(広島)などミッションスクールから合格者を出すようになった。キリスト教系の学校は学費が高く、経済的に余裕がなければ子供を通わせることはできない。

 俗っぽく言えば、「お嬢さま」学校であり、国立大学に合格できる学力がありながら、親の意向に従って女子大に進むケースが多く見られた。こうしたなか、きわめて少ないが、関西では女子校から京都大、大阪大、神戸大に進む女子が現れる。

 1970年代以降、高崎女子、前橋女子(以上、群馬)、宇都宮女子(栃木)、浦和第一女子、熊谷女子、川越女子(以上、埼玉)など北関東の公立女子校から合格者が出てきた。

 これらの女子校は毎年、コンスタントに東京大合格者を出している。埼玉は通学圏内、群馬、栃木も片道2時間~2時間半であり、保護者にすれば同じ関東圏でたいして遠距離感はなく、学生寮や1人暮らしにそれほど心配はなかったようだ。

 しかし、京都大となれば話は違う。関東の女子が箱根の山を越えるにはハードルが高かった。

図表:京都大に強い女子校1954-1985同書より転載 拡大画像表示