写真:東京メトロ,日比谷線Photo:PIXTA

日比谷線は8月29日、全線開業60周年を迎えた。1964年の東京オリンピック開催までの全線開業を課されたが、計画において致命的な高速道路計画が浮上。解決の糸口が見つからない中で出てきた幻の道路計画と、東京都が得た大きな見返りとは。(鉄道ジャーナリスト 枝久保達也)

途中区間を後回しにして
建設に着手した日比谷線

 日比谷線は8月29日、全線開業60周年を迎えた。日比谷線は1957年に銀座線、丸ノ内線に次ぐ地下鉄として路線計画が決定し、1959年5月1日に南千住~仲御徒町間で着工した。すると直後の5月26日に1964年夏季オリンピックの東京招致が決定し、大会開幕までの全線開業が厳命されることになった。

 1961年3月の南千住~仲御徒町間開業を皮切りに、1962年5月に北千住~南千住間と仲御徒町~人形町間、1963年2月に人形町~東銀座間と、千住方面から都心に向けて延伸していった。ところが次は、1964年3月の霞ケ関~恵比寿間、7月の恵比寿~中目黒間で、両方面を結ぶ東銀座~霞ケ関間が同年8月29日に開業した。両方面から建設が進み、中間部が最後に開業した路線は日比谷線だけだ。

 なぜこのようなことになったのか。日比谷線を建設した帝都高速度交通営団(営団地下鉄)は通常の地下鉄と同様、千住方面から中目黒方面に延伸していくつもりだったが、銀座・日比谷エリアで東京都が計画していた「ある事業」と競合したことで調整が長引き、オリンピックまでに開業するためには、その区間を飛ばして建設に着手せざるを得なかったのだ。そして、その解決にあたって意外な地下鉄路線が登場するのである。

日比谷線にとって
致命的な高速道路計画

 話は1958年5月にさかのぼる。日比谷線の着工に向けて設計を進める営団に対し、東京都は「東京都市計画鉄道第2号線(日比谷線のこと)のうち、桜田門~市場通り間(晴海通りのこと)については、本局において目下同地点地下に高速道路を計画中である」として、「実施設計に当っては、事前に当局都市計画部に協議されたい」と通知した(ここでいう高速道路は地上の道路と立体交差した道路という意味で、現代的な高速道路とは性格が異なる)。

 しかし、都の計画はなかなか具体化せず、協議は進展しなかった。営団は1961年4月、東銀座~霞ケ関間の着工を後回しにすることを決め、霞ケ関~中目黒間の工事施行認可申請を行うが、ちょうどその頃、「三原橋西側から警視庁前に至る1.3キロにわたり、片側2車線の地下自動車道路を日比谷線に沿って設置する」という都の案が提示された。