これは日比谷線にとって致命的な内容だった。都の案では地下鉄の地下1階コンコースと同レベルに地下道(アンダーパス)を設置するため、銀座駅の通路を分断・圧迫し、1日あたり最大100万人と想定された利用者を捌くことはできなくなる。また日比谷線と同時に建設するにしても、地下鉄トンネル上に道路を設置するには設計変更が必要なため、オリンピック開催には間に合わなくなる。

東京都が受け入れた
「地下3階道路案」

 両計画の共倒れを危惧した政府は、営団と都のあっせんに乗り出した。オリンピック開会を3年後に控えた1961年9月、鉄道を管轄する運輸省、道路を管轄する建設省、東京都、営団が出席する「銀座地下鉄・自動車道路対策幹部会」を開催し、10月中に結論を出すことを第一に、協議が行われた。

 しかし幹部会でも解決の糸口は見えず、タイムリミットが迫る中、ある委員から「自動車道路のレベルを日比谷線の通る地下3階の深さに下げ、片側2車線の自動車道路を日比谷線の両側に張り付ける」という「地下3階道路案」が提示された。

 営団は一応の結論が出たことを歓迎しつつも、道路に挟まれる日比谷線ホームを計画の14メートルから9メートルに縮小する必要があること、同時に建設するとオリンピックに間に合わないことなどを指摘した。

 一方、東京都は、道路が地下1階から地下3階になれば工費が増大し、換気や排水などの維持費も高くなること、周辺のビル地下駐車場などとの連絡が不可能になること、地上からの出入り口が急勾配になり道路としての機能が低下することなどを挙げて、この案を拒絶した。

 10月中に結論が得られないまま迎えた1961年12月、営団は運輸、建設両大臣に裁決を一任すると表明。翌年1月に行われた運輸、建設大臣と東京都知事の三者会談の結果、都はようやく「地下3階道路案」を受け入れた。