地下3階道路が
存在しないワケ

「しかし、そんな道路は存在しないではないか」と思われるかもしれない。晴海通りには確かにアンダーパスがあるが、それは数寄屋橋付近から日比谷公園付近までの非常に短いもの(図参照)で、しかも銀座から日比谷方面の片方向2車線のみの中途半端な道路だ。

『東京地下鉄道日比谷線建設史』断面図を筆者加工『東京地下鉄道日比谷線建設史』断面図を筆者加工 拡大画像表示

 なぜ東京都はせっかく合意した案を放棄したのか、話を「地下3階道路案」受け入れに戻そう。営団は直ちに自動車道路を地下3階に設置する前提で、東銀座~霞ケ関間の設計を取りまとめ、1962年3月に建設省へ申請。同年8月に認可を受け、9月から順次工事に着手した。着工時点でオリンピック開会まで2年であった。

 ところが、ようやく工事が軌道にのりかけた同年11月、運輸省・建設省の両次官、首都圏整備委員会事務局長、東京都副知事は、「地下3階道路案を廃止」して、「数寄屋橋交差点西側付近より日比谷交差点西側付近まで、西行き交通を処理するため、地下1階に2車線の自動車道路を公共事業として、地下鉄工事と同時施工する」との覚書を締結したのである。

 地下1階と地下3階では道路建設コストは大きく異なる。これでは投資効率が悪すぎると判断した都は、やむなく計画を縮小することになり、現在のアンダーパスとして実現した。

 都は地下道路とあわせて三原橋とその下に設置された三原橋商店街を撤去したいと考えており、商店の受け入れ先として三原橋の下、日比谷線東銀座~銀座駅間の連絡通路地下2階に地下商店街のスペースを確保したが、それもお流れとなった。幻の銀座地下街は現在、都の倉庫として使われているそうだ。

 地下3階道路案の「痕跡」は目に見えない形で残っている。都の方針転換を受けて営団は、日比谷線銀座駅のホーム幅員を当初計画の14メートルに戻すことも検討したが、既に工期には一刻の猶予もないため断念せざるを得なかった。利用者数のわりに狭いホームとなった背景にはこのような事情があったのだ。