見返りを得ることに
成功した東京都
ではなぜ、都は強硬姿勢を一転して「地下3階道路案」を受け入れたのか。それは、彼らが十分な見返りを得ることに成功したからだった。実は三者会談では同案の受け入れの他、新たに計画追加される地下鉄「6号線」の建設担当者を営団から都に移すことについても合意したのである。
東京都の地下鉄参入が認められたのは1957年のことだ。都は戦後、一貫して営団廃止と都営地下鉄設立を強く求めてきたが、地下鉄建設に実績のない都の主張は受け入れられなかった。そこで地下鉄建設をスピードアップするため、営団が保有する5路線の免許のうち「1号線(後の浅草線)」のみを譲り受け、営団を補佐するという形でようやく参入が認められた。
だが、問題はその先だ、営団としては免許の譲渡は本意ではなく、それ以上の譲歩は考えていなかった。しかし、都としてもせっかく建設部隊、営業体制を整備したのに、1号線で終わりにするわけにはいかない。そこで1960年ごろから、1号線に続き「5号線分岐線」も建設させるよう政府への働きかけを開始した。
5号線とは現在の東西線だが、この頃は大手町から分岐して下板橋に至る分岐線の計画が存在した。戦前に開業した銀座線に加え、4路線(丸ノ内線、日比谷線、東西線、浅草線)は着工済みで、方針が決まっていないのは5号線分岐線だけ。それを譲ってほしいという話だった。
5号線分岐線は1962年6月の計画改定で、下板橋~五反田間の「6号線」つまり現在の三田線として独立し、都の担当路線となった。その背景には前述のとおり三者会談の合意があり、その結果としてオリンピック前の日比谷線全通、さらには最終的に4路線まで拡張された現在の都営地下鉄が実現したのであった。