あれは息子が小学1年生になった年だった。花火を見たいという息子を連れ、会場に向かった。
会場となる駅で降りると、想像した以上の人混み。ゾロゾロとした行列で少しずつしか前に進まず、なかなか会場まで辿り着けない。もうすぐ花火が上がる時間だ。焦ってスマートフォンで時刻を確認する。
ドッカーン!パラパラパラパラ……。
ああ、もう花火が上がり始めてしまった。周りで歓声が上がるなか、この混雑した行列にいると、息子の背丈ではちゃんと花火が見えない。不満そうな表情の息子。父として、悲しませたくない。腕にグッと力を入れ、息子を抱き上げ肩車した。
そういえば、息子が小さい頃はよく肩車していたな。今は、想像以上にずっしりと肩が重い。ああ、こんなに大きくなったのか。肩にかかる重みを、少し誇らしく感じた――。
「めでたし」で終わる桃太郎も
立場を変えれば悲劇の物語に
単に「息子に花火を見せるために父が肩車した話」が、ナラティブとしてその個人の視点から語られると、急に感情移入できるようになると思いませんか。またナラティブは、個人の主観によるものだからこそストーリーは同じでも、語り手によってまったく別の風景が立ち上ります。