「船には何十人もの人が乗ってたよ。ロシア人、朝鮮人、日本人……。日本人は年配者が多かった。10人くらいかな。朝鮮人もたくさんいて、そっちは若いものばっかりだ。
朝鮮人は日本人を恨んでいて、日本語を話すとリンチを受けそうだった。だから日本人はほとんど口をきかないで、みんな小さくなっていたね」
3日後、ウラジオストクに到着し、列車でハバロフスクに。そしてトラックに大勢詰め込まれてコムソモリスク・ナ・アムーレという町の収容所に運ばれた。ハバロフスクから約300キロメートル北に位置するラーゲリで、あちこちがカンカンに凍っていた。
「寒かったよ~」
飢えと寒さに耐えながら森林伐採
日本人は皆死んで自分が最後の1人
ラーゲリは森林地帯にあった。大きな小屋がいくつも並び、総勢何百人もが収容されていた。
日本人はそれほど多くなく、全部で50~60人というところか。
あてがわれた部屋には二十数名の収容者が入っていた。日本人は4、5人で朝鮮人は10人くらい。あとはロシア人や他の国の人々である。日本人で若い収容者は實氏だけで、ほかは皆40~50代の中年であった。