私にもいい分はある。だが、だからといって、いい訳はしない。実際にメディアの取材でも、「手を出したことは事実だ」と話し続けてきた。
これが、社会的制裁というものなのだろう。
まもなく、私は流経大柏高校から流経大本体への異動を命じられた。
夜に人目を忍んで荷物をまとめて高校の教員室を出て、大学に引っ越しをすませた。引っ越しを手伝ってくれたのは、私の教え子だ。
大学では1室をいただいたが、2年間、ほとんど仕事がなかった。私に「とにかく静かにしていてほしい」ということだったのだろう。
当時は怒りしかなかった
周囲すべてが敵だった
今思えば、大学側も私の処遇に相当悩んだはずだ。あれだけ世間を騒がせたのだから、無理もないことだ。温情ある処遇には感謝している。
ただ、当時の私にしてみれば、怒りしかなかった。
この私も及ばずながら、付属高校、大学本体の進学率や競技力の向上に役立てればと考え、全力で頑張ってきたという自負がある。私がどれだけの思いで、この流経大柏高校ラグビー部を立ち上げ、全国に名だたる強豪チームに育て上げてきたかを理解してほしかった。
もっといえば、「スポーツの流経」の実績と評価をつくり上げたのは、この自分だとさえ思っていた。