「仕事が遅い部下がいてイライラする」「不本意な異動を命じられた」「かつての部下が上司になってしまった」――経営者、管理職、チームリーダー、アルバイトのバイトリーダーまで、組織を動かす立場の人間は、悩みが尽きない……。そんなときこそ頭がいい人は、「歴史」に解決策を求める。【人】【モノ】【お金】【情報】【目標】【健康】とテーマ別で、歴史上の人物の言葉をベースに、わかりやすく現代ビジネスの諸問題を解決する話題の書『リーダーは日本史に学べ』(ダイヤモンド社)は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、伊達政宗、島津斉彬など、歴史上の人物26人の「成功と失敗の本質」を説く。「基本ストイックだが、酒だけはやめられなかった……」(上杉謙信)といったリアルな人間性にも迫りつつ、マネジメントに絶対活きる「歴史の教訓」を学ぶ。
※本稿は『リーダーは日本史に学べ』(ダイヤモンド社)より一部を抜粋・編集したものです。

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財政難で実施したこと

毛利重就(1725~89年)は、江戸時代中期から後期にかけての長州藩主。もともとは毛利家の分家の出身だが、長州藩主の本家に後継者がいなかったため、養子として本家を継承し、長州藩主となった。財政が厳しく赤字の状態であったことから、新たな税収を得るための徹底的な土地調査(検地)を実施し、6万石の増収をもたらした。そのうち4万石を藩財政とは別に、「撫育方(ぶいくかた)」という特別会計による組織を設け、藩内で生産された年貢米以外の生産物(米・紙・砂糖・塩・蠟など)を管理し、江戸に運んで販売することによって、藩に莫大な利益をもたらした。この撫育方は重就が亡くなった後も成長し、長州藩は全国でも屈指の裕福な藩となる。この潤沢な資金は長州藩の倒幕活動でも活用され、明治維新に至る。毛利重就の知名度は一般的には高くないものの、長州藩の中興の祖であり、名君と評される。

毛利重就が長州藩主に就任したとき、長州藩はかなりの財政難だったため、財政の立て直しが喫緊の課題でした。

そこで重就は、税収を得るために田畑の面積や収穫高を徹底的に調べる検地(生産力調査)に着手しました。

長州藩は積極的に農耕地の開発をしていたので、藩が把握していない田畑がたくさんあると考えたのです。

新たな収益をどう使うか?

実際、検地をした結果、6万石もの増収を得ることができました。この増収分をどう使うか。これがリーダーとしての腕の見せどころです。

藩主の生活費や他藩の大名との交際費などにも使えたでしょう(江戸時代の武家は冠婚葬祭などの交際費負担が重かったのです)。

また、もともと財政難だったので、借金の返済にあてるという選択肢もあります。ところが、重就は4万石の税収をベースに「撫育方」という特別会計による組織を設け、さらなる増収を図ったのです。

先行投資をして将来の収益につなげる

撫育方の資金で、下関を中心とする港をつくり、日本各地に物資を届ける船が長州藩内に立ち寄れるようにしました。

さらに、こうした船に対して荷物置き場を貸し出す倉庫業や、資金を貸し出す金融業も撫育方で運営し、大きな利益を得たのです。

また、藩内の産業育成も積極的に進めました。とくに長門と周防(長州と防州)で生産を奨励した米・紙・塩は、いずれも白く輝く良質な名品であったため「防長三白(ぼうちょうさんぱく)」といわれ、長州藩外で高く売れました。

重就がいなければ
明治維新はなかったかもしれない?

増収分を先行投資して始めた撫育方は、重就が亡くなった後も続けられます。

これらの事業により蓄えられたお金は、幕末に長州藩が京都などで政治活動をしたり、軍備を整えて幕府と戦ったりする資金として活用されました。

重就が、新たな収益を先行投資に使っていなかったら、長州藩が栄えず、明治維新もなかったかもしれないのです。

※本稿は『リーダーは日本史に学べ』(ダイヤモンド社)より一部を抜粋・編集したものです。