情報を学習者に根づかせ、大切な知識にするために

 高度に発達した動画ツールが、私たちの身近な存在になった。動画アプリを開くと好みの情報が自動的に並べられ、検索をかければ、痒い所に手が届いた情報を入手できる。動画ツールを使えば、高度な動画を編集し、発信することができ、自己表現のレベルを格段に上げることもできる。私たちは、動画ツールから、快楽や便利、自己実現などの恩恵を日常的に受けている。それだけに、動画情報が私たちに与えている影響も大きい。日々の生活に入り込んできた動画情報は、私たちの学び方やアイデンティティにさえ影響を与えている。

 動画ツールを使うメリットは大きいが、それによるリスクがあることも忘れてはならない。リスクを意識し、注意深く管理しなければ、上手にツールを使いこなすことにはならない。動画ツールを使うことの最大のリスクは、動画ツールによって私たちの生活が支配されかねないということだと思う。次から次へとスマホやパソコンに現れる魅力的な動画を受動的に眺めているうちに、私たちの貴重な時間が奪われ、睡眠時間さえも削られてしまうといった私たちの日常に、リスクが端的に示されている。視聴者の好みや関心を知っている動画ツールは、私たちに偏った情報を与え続けかねない。偏った情報に頼っていると、新聞やテレビであれば触れていたであろう、「現在の自分の関心の枠外にあるけれど、自分自身に深く関連し得る情報」に接する機会が奪われかねない。機会の喪失によって私たちの認識に偏りが生み出されるのだとしたら、動画ツールは私たちの認識まで支配してしまっていることになる。

 私たちが自律的に生きていくために、「メディアリテラシー」が不可欠になってきている。私たちが接している情報が、どのような文脈の中で生み出され、世界の中でどのような位置を占め、どのように切り取られているものなのか、ということの理解が大切になってきているのだ。

 教育現場には、子どもにとって望ましくないものを遠ざけようとする圧力がかかりやすい。動画情報についても、望ましくないものを子どもたちの目からブロックすることが真っ先に取り組まれた。それはそれで必要なことだが、ブロックするのには限界がある。動画情報を視聴することによって生じ得るリスクについて、教育現場でも十分に語られなければならない。しかし、動画ツールの日進月歩の発達に、教育現場が追いつかない。問題が発見されてから、その問題への取り組みが教育現場に下りてくるまでには、それなりの時間が必要だからだ。

 現在の若者たちは、動画情報に囲まれている環境が当たり前でありつつ、動画情報のリスク管理を自分たちの手で自律的に行わなければならない世代だ。そのような世代だからこそ、じっくり考える時間をもったり、他者と共に学んだりする意義や楽しみをしっかり経験してもらいたい。

 例えば、私たち大学の教員も、動画による研修を受けることがある。当然のことながら、わかりやすいのだが、その一方、一人でパソコンの前に座って研修動画を視聴するのは、おもしろくないし、時間を取られるので辟易する。研修を企画する側からすると、「わかりやすくて効率的」な動画ツールに頼りたくなるのだろう。しかし、研修を受ける側からすると、研修内容に愚痴をこぼしたり、一緒に笑ったりする相手さえ周囲にいない状況は、垂れ流される情報にただただ曝されるしかなく、無力感や空虚感を生み出す。オンライン会議システムにしても同様である。コロナ禍で普及したオンライン授業やオンデマンド授業が、大学の授業にあまり定着しなかったのは、学習者に無力感や空虚感、孤立感を生み出しかねないからだと思う。学びを提供する側は、学習者が「自分が自分であること」「人と共に学ぶこと」を保障することの大切さを看過してはならない。

 動画ツールへの依存によるリスクを避けるためには、対面での人との関わりを効果的に取り入れていくことが大切だろう。それによって、情報が学習者の中に根づき、学習者にとって大切な知識になっていき、また、その知識がコミュニティの中で生き生きと共有されるようになっていく。

挿画/ソノダナオミ