情報は、他者と語り合うことで意味をもつ知識になる
哲学対話を用いた授業での学生の発言を、もうひとつ紹介したい。
“メディアの発達によって、私たちは情報を得やすくなりました。でも、情報を得るだけでは学びにはなりません。学びは、私たち自身で情報を掘り下げていくことで生まれるのだと思いますが、そのためには人の力を借りる必要があります。他者と対話すること、人に教えてもらうことが学びの核心で、そういった学びは私にとっての修行です”
この学生は、「なぜ、大学で学ぶのか?」という問いも意識して発言したのだろう。動画ツールを駆使した遠隔教育が発達してきている中、一人暮らしをして、高額の授業料を払って大学に通うことに疑問が生じるのも無理はない。大学での学びが、教科書に書かれていることを頭の中に叩き込んでいくことだと考えるなら、コストをかけて通学する必要はない。むしろ、発達したICT技術に頼るほうが合理的だ。それでも、大学に通う価値があると感じるのは、共に学ぶ他者が存在するからだ。学生の発言の裏には、このような思いが込められているように私には感じられた。
大学で学ぶ専門的な内容は、世の中の多くの人にとって「どうでもよいこと」であることが多い。しかし、その専門的な内容は、その分野の教員や学生にとってはとても大切な知識によって成り立っている。私自身は「障がい者の社会教育・生涯学習」というテーマで研究をしているのだが、このテーマは多くの人たちにとって、大切なことではないかもしれない。けれども、このテーマがとても大切だと思う人もいて、私たちはそうした人たちと共に知識を生み出し、共有している。しかも、それらの知識によって方向づけられた世界観や人間観までも、このテーマについて深く考えている人たちと共有している。すなわち、大学に人が集まって学び合うということは、「どうでもよいこと」が「どうでもよいことではなくなっていく」過程から生み出される知識や世界観、人間観を仲間たちと共有していくということでもあるのだ。
大学という特殊な場ではなくても、生き生きとした知識が流通する場では、同様のことが起こっている。例えば、ポケモンに出てくるキャラクターの名前をすらすらと言える子どもがたくさんいる。私にはその名前は意味をもたないので、「ピカチュウ」などと覚えても、自分自身とは切り離された断片的な情報でしかない。しかし、子どもたちにとっては、キャラクターの名前や特徴は、子どもどうし、あるいはポケモンファンの間で生き生きと流通する知識であり、その知識を多くもっているということは、子どもたちが属しているコミュニティにおいて意味のあることなのだ。
「与えられる動画情報に身を任せていることで空虚感を覚える」という学生の気持ちは、動画情報が他者との関係から切り離されていると感じることと関係があるのではないか。動画によって得られた情報であっても、他者と語り合うことで意味のある知識に変換し、他者との間で生き生きと流通させることで学びになっていく。そうした過程を踏まない動画情報は、自分自身の中に深く入り込んでくることはなく、意味もなく流れ去る空虚な情報でしかない。
先の発言をした学生は、他者と知識を共有し、学びを深めていく過程を「修行」という言葉で表現した。「修行」という言葉には、楽に学べることが追求される学びの在り方ではなく、「難しく辛いことに挑戦する学びの在り方」が表現されている。また、同時に、「難しく辛いことに挑戦する学びの在り方」への憧れも表現されているようにも感じる。苦労してでも、自分自身の根っこになるような学びへの欲求をもつ学生を応援したいと私は思う。