“動画での学び”と“書籍での学び”の大きな違い

 動画ツールの発達と普及によって簡単に情報を得ることができる状況は、なぜ、学生たちに不安を抱かせるのだろうか。そのヒントのひとつが、哲学対話の授業で別の学生が残した次の発言にある。

“ショートビデオは、自分の好みの情報が次から次に出てくるので、新しい情報に出合いません。ただ詳しいだけの情報は空虚で、そうした情報に囲まれていると、自分自身が薄れていく感覚に陥ります”

 私たちは、自分のスマホに次から次へと入ってくる情報についつい見入ってしまうことがある。SNSには、持ち主の関心に合わせてコンテンツを流す機能が付いている。この機能は、あまりの簡便さゆえに私たちをスマホの虜にしかねない。流れてくる情報は、自分の関心に即しているはずなのだが、自分から探しにいっているわけではないので、それらをシャワーのように浴び続ける状況になってしまう。この学生は、そのような状況が、私たちの主体性を奪いかねないということを指摘してくれた。

 深い思考やたくさんの経験を経ずに、「なんとなく」選んだコンテンツによって、自分が何者であるかということを見透かされる感覚が若者たちを不安にさせるのも無理はない。若者たちは、「自分が何者であるのか」「何者になりたいのか」を日々悩んでいるからだ。「自分が本当に好きなものは何なのか」「自分が生涯をかけて取り組みたいことは何なのか」といったことの答えがスマホの中にあるはずはない。「自分が何者であるのか」「何者になりたいのか」は、実際の経験の中で、感動や失敗を繰り返し、物事や自分について深く考え、捉え直した先にようやく見えてくるものだ。

 さらに、スマホ任せの情報取得ばかりだと、関心の外側にある大切な情報を見過ごしてしまう。日々接している情報に偏りがあることも、学生を不安にさせるのかもしれない。

「学生が本を読まなくなった」と言われるようになって久しいが、本を読むことへの憧れ、本を読まない自分への焦りを持っている学生は多いように感じる。単純に情報を得るだけであれば、わざわざコストをかけて本を探し、時間をかけて活字を読む必要のない時代である。

 しかし、読書によっては得られるが、動画視聴によっては得られないこともある。

 学生時代、私は本をゆっくり読むタイプだった。本に書かれていることを単純に理解するだけでは物足りず、その内容が「自分にとってはどのような意味をもつか」を考えずにはいられなかったからだ。一行を読み進んでは、そこに書かれていることが腑に落ちるまで思索し、納得したことをノートに記していく読み方が、私にとっての大学時代の修行であり、楽しみだった。ことさら、専門書はわかりにくく、とっつきにくいからこそ、著者との対話が生まれ、自分自身との対話をもたらしてくれた。そうした経験は、いまにして思えば、その後の私の人生の足場になった。私だけでなく、かつて多くの若者たちは、そのようにして自分を作り上げていたのだと思う。

 一方で、動画を通して「わかりやすく」伝えられる情報は、十分に自問自答することなく私たちの中に入ってくる。そして、「この情報は、私にとってどのような意味をもつのだろうか?」と思考する時間をほとんど与えられないうちに、次の情報が入ってくる。動画によってわかりやすく伝えられる情報は、「理解できる」ことが前提であり、「自分なりに解釈したり、試行錯誤したりする」余地も小さい。

 情報が自分にとって意味のある大切な知識になっていくためには、それなりの時間がかかる。私がよく観る動画はジャズの音の使い方のものが多いことを述べたが、動画から得られる情報は、確かにジャズの演奏に有用なヒントを与えてくれる。しかし、「なぜ、この音を使うのか?」ということを考えるには、試行錯誤し、自分なりに納得するための時間が必要だ。最終的にその音を使うことが腑に落ちるのは、「この音を使うのが私らしい」「私はこの音を使いこなせている」と思うことができるかどうかにかかっている。この思考と試行錯誤こそが、私にとって必要な知識を得ると同時に、私自身を作り上げていく過程になっている。次から次へと「わかりやすく」伝えられる動画情報に頼ることで、私たちは、思考と試行錯誤の時間を「無駄な時間」に変えてしまっていないだろうか。

 情報が「自分自身を形作る知識になる」のは、自分自身との対話を経て苦労して得る過程があるからだ。簡単に得られる情報は、自分自身との対話を生み出しにくい。学生たちはそのことに気づいているのだろう。