ただ、禎子は天皇からも道長からもかわいがられ、叔母・嬉子に先立たれていた後朱雀天皇に入内した。

 後朱雀天皇には頼通、教通、頼宗も娘を送り込んだが、男子は生まれず、嬉子の忘れ形見である後冷泉天皇(第70代)が登極し、弟で禎子の子であるのちの後三条天皇が東宮となった。禎子は陽明門院となって孫の白河天皇が院(上皇・法皇)として君臨する時代まで生き、彰子亡き後、最実力者となった。

 いずれにせよ、白河は皇室の中興の祖であり、現在の皇室はその子孫であるから、この禎子は道長の孫たちの中では最強の勝ち組だ。

好人物で文化への理解もあった
源倫子の長男である頼通

 倫子の男子では、長男の頼通は26歳の若さで摂政となり、長く権力の座にいた。だが、具平親王の娘・隆子を愛するあまり他の夫人を迎えるのが遅れ、娘の数が少なかったため、外戚としての地位を築けなかった。

 好人物で、宇治平等院を創建し文化への理解もあったが、前九年の役など、武士の世への最初の兆候に対処しなかった。

 同じく倫子の子である教通は、「同母兄弟は順に関白に」という彰子の指示で関白となったが、その後は頼通の子の系統に戻すことになっていた。教通やその子の信長はこれを覆そうとしたが果たせず、子孫も栄えなかった。

 摂関は、頼通の子の師実(1042~1101)、その子の師通(1062~1099)が継承した。師実は、権勢を増した白河と悪い関係でなかった。白河は祖母・陽明門院が望む弟を退けて子の堀河天皇に譲位したい、師実は従兄弟の信長を排除したいため、互いを必要としたからである。

 しかし、師通が急死すると、子の忠実は非力で、白河のやりたい放題になった。忠実の子である忠通と頼長の兄弟による跡目争いが、鳥羽上皇の子ども同士の争いや、摂関や上皇の用心棒というべき存在だった源平が戦いを通じて強大化したことと相まって、保元の乱(1156年)から武家の世になった。

 ただし、道長・頼通の子孫である御堂流よる摂関の独占は続いた。ただ、鳥羽天皇の時、天皇の伯父に当たる閑院流(道長の叔父・公季の系統)の公実が摂政になろうとしたこともあった。ところが、これを公家たちは受け入れず逆に、摂関は有識故実の知識を独占する御堂流に、政治的実権の有無とは切り離してであるが任せるというコンセンサスができた。

 これにより御堂流は、豊臣秀吉・秀次を例外として、王政復古によって摂関制が廃止されるまで独占した。近衛・鷹司・九条・一条・二条の五摂家は、忠実の子や孫の時、成立した。