道長に似て勝ち気だった
源明子の子どもたち
源明子の子どもは、おっとりとした倫子の子どもたちと違い、道長に似て勝ち気だった。次男の頼宗は、右大臣になった。正室は道長と関白を争った伊周の娘で、子孫は中御門・持明院・壬生家などとなった。女系では五世の孫に当たる七条院(坊門殖子)が後鳥羽天皇の母として現皇室に連なる。また、玄孫の源懿子は二条天皇の母である。
四男の能信は、頼通と張り合って乱暴狼藉を働いたこともあるが、不遇だった時代の後三条天皇を支えて東宮とするのに成功。養女の茂子(閑院流・公成の子)を妃として送り込んで、白河天皇の養祖父として贈正一位太政大臣となった。道長の玄孫にあたる白河が倫子の子孫である御堂流の影響を排して院政へ移行できたのは、御堂流の権力独占を嫌う、明子の子・能信の意地があってのことだ。
六男の長家は優れた歌人だった。その子孫の藤原俊成・定家父子は「和歌の家」である冷泉家の祖であり、道長の子孫の中で最も文化的功績が大きい。また、長家の子孫の建春門院平滋子が後白河天皇の最愛の妃となり高倉天皇を生んで現皇室につながる。
明子の2人の娘のうち、寛子は、道長に東宮を退かされた小一条院敦明親王を、母の住む高松殿で婿に迎え、1男1女を得たが、27歳で死去した。
家庭的に最も幸福だったのは、五女の尊子だ。村上天皇の孫である源師房に嫁いだ。頼通や敦康親王(藤原定子の子)の夫人たちの弟である。道長の娘で皇族に嫁がなかったのは尊子だけで、周囲は怒ったという。だが、道長は師房を高く評価し、摂関に抜擢してもいいとすら考えていたという。
3男3女を得て、源俊房は左大臣、顕房は右大臣となった。娘2人は頼通の子に嫁ぎ、摂関家にDNAを残した。尊子は85歳、夫の師房も70歳まで存命し、子孫は村上源氏として、源平時代には御堂流と競い、名門として現代にまで及んでいる(久我・岩倉・北畠家など)。
武家の時代にあって摂関家が生き延びたのは、もともと、清和源氏が摂関家の「ボディーガード」的な存在だったこともあるかもしれない。明治になると華族として生き延び、近代の宰相でも西園寺公望、近衛文麿、細川護熙と、道長の子孫がいる。
細川護熙は、あの世へ行ったとき、先祖である道長に、胸を張って現世でしたことを誇りたいと言ったことがあるという。日本的な調整型の政治家の理想像として、道長は健在なのである。
(評論家 八幡和郎)