“学びを通して豊かに生きる”が実現する社会に
――KUPIの授業では、教員と学生、そして、学生同士が“寄り添い”、「学び」のための深い時間を過ごしている姿が印象的でした。大学で、あるいは企業で、“学びを希望する者”に、一緒に学ぶ者や教える者が寄り添う大切さを、津田先生はどう考えますか?
まず、“学びを希望する者”に学びの機会を提供することは、これからの社会を考えるうえで、とても大切なことだと思います。今後、「強制された学び」がすべてなくなるわけではありませんが、その地位は低下していくでしょう。人間を決まった型に嵌(は)めていく学びよりも、各人の個性に磨きをかける学びが重視されるようになってきたからです。学びの世界に足を踏み入れる動機として、「自分自身が成長したい」という思いが、いっそう大切にされなければならない時代になってきています。
例えば、資格取得のために暗記に励むということがあります。資格を取ることがゴールであれば、暗記した内容は資格取得後すぐに忘れてしまっても構いません。その場合、暗記をするという苦行は、「資格を得て、仕事をステップアップさせる」といった未来のための投資の意味を持つことになります。資格なら「それもあり」ですが、大学での学びではどうでしょう? 小・中・高校での勉強についてはどうでしょう? すぐに忘れてしまう暗記にばかり苦しむのは、あまり健全な学習とは言えないと私は思います。たとえ、受験合格のためという目的があるにせよ、その学びが自分自身の成長に直接つながっているという実感を伴っていることが大切なのです。逆に言えば、「自分自身を成長させたい」という思いがあって、その思いを実現させる行為が「学び」になるわけです。そのような学びについての考え方が、近年、強くなってきているのではないでしょうか。
大学も企業も、人間を成長させることを担う組織です。「人間を成長させる」と言うと、強制力を働かせることを考えてしまいがちですが、人間には「自分を成長させたい」という思いがあり、組織はその思いに応えて応援するものだと、私は思います。「学びなさい」と強制されて「やらされる」学びは、自分を成長させている実感を奪いかねません。お母さんやお父さんから「勉強しなさい」と言われて、かえって勉強する気をなくしたという経験をもっている人は多いのではないでしょうか。
大切なのは、「自分自身を成長させたい」という思いをいかに引き出し、他者がそれを応援できるか、です。子どもの「やる気」を引き出すということは、最近の教育論の中でも熱いトピックですが、それ以前に、「自分は価値のある人間だ」と感じていなければ、「成長したい」という思いも生まれていきません。例えば、「私なんて、いないほうがいい」などと考えているときは、「自分自身を成長させたい」という思いが生まれようもないでしょう。「私がここにいていいのだ」という感覚を根拠に、人は希望をもち、成長への意志をもつのだと思います。その過程は、人とのかかわりの中で生まれるものです。あたたかい雰囲気の中で「私がここにいていい」という感覚をもち、友だちや先輩の姿に接しながら、未来の自分を思い描き、他者から成長を評価されることで、さらに成長への意志が育っていく。そういうものではないでしょうか。
大学でも企業でも、学生や従業員が、「自分自身を成長させたい」という思いを抱き、自発的に学びを深めていく過程を生み出すために、お互いに認め合い、成長を称え合う関係性――それを支える風土の形成が必要だと思います。
さまざまな個性をもった個人が社会を構成しているという社会観が広がると、障がい者と非障がい者も、能力のあるなしで判断されるのではなく、それぞれに個性的な人間として判断されるようになってくるはずです。「自分を成長させたい」という思いをもち、学びに身を投じる人は、自分の個性を磨いていく人として応援されるべきだと思います。企業であれば、その先に、一人ひとりの個性を生かして生きがいを感じる職務の提供ができるかもしれません。誰もが、学びを通して豊かに生きることが実現する社会であってほしいですね。