日本の大学としての「大胆な取り組み」からの気づき
――2019年度からKUPIが始まり、今年度(2024年度)が6年目になります。その時間の中で、津田先生が気づいたこと、考えたことを教えてください。
第1に、知的障がいのある青年や成人たちが、大学の授業で「難しい話」を楽しんで聞き、それについて自分なりの独特な枠組みで理解しようとし、感じたことを発信するといった“生き生きとした学び”の主人公になり得ることを改めて感じました。それは、あるKUPI学生が発した「難しいけど、楽しい」という言葉に象徴されているように思います。「わかる」「理解する」ことが前提なのではなく、「わからないことを知る」「自分なりに解釈する」「それによって世界を広げる」ということに学びの意義があるというのは大学教育の特徴だと思いますが、それをKUPI学生たちは十分に体験しているのだと思います。
第2に、大学の教員や学生が、それぞれにおもしろがってこの取り組みに参加していることです。教員は、自分の専門の話をしようと思わなかった人たちに対して話をすることで、その反応に新鮮さを感じているようです。ある教員は、ジェンダー問題について語った直後、KUPI学生がアイドルグループの某メンバーと結婚したいという願望を熱く語る姿に接し、知的障がいのある女性にとってのジェンダー問題とは何かということに関心を抱きました。
神戸大学の学生は、KUPI学生が教室に駆けつけ、熱心に学ぶ姿から、学びへの姿勢を学んでいるように感じます。また、学生たちがKUPI学生たちと友だちになっていく姿をみると、同世代の若者同士の絆も感じます。KUPIが行われているのが人間発達環境学研究科という「人への関心が高い場所であるから」とも思いますが、「共に生きること」を指向する若者たちの様子に、私は勇気をもらっています。
第3に、大学のあり方について、改めて考えることが増えています。知的障がい者を対象とした大学での学習プログラムの開発は、文科省との関わりから、神戸大学がたまたま担うことになりました。しかし、第2・第3と続く大学はなかなか現れません。海外の有名大学の中には、神戸大学よりももっと大規模な取り組みを行っているところが少なくありません。日本と海外の大学とを比べると、もちろん、国によって制度が違うこともありますが、大学での学びに対する人々の意識の違い、あるいは、社会が大学に対して認識している役割の違いが大きく影響している気がします。例えば、アメリカであれば、社会の不公正を正す役割が大学に期待されています。日本の大学については、大学の内でも外でもそのような期待が論じられることが少ないように感じます。また、大学の知が社会の共有財産であるという意識も、日本では薄いように思います。イギリスでは、19世紀末から大学の知を労働者階級と共有しようとする取り組みがなされてきています。大学の知は、市民の誰もが活用し、生活を豊かにすることのできる資源だという意識が、日本に根付いていないのではないでしょうか。にもかかわらず、偏差値で輪切りにされ、学ぶ意欲を喪失させられた学生たちが無気力に学んでいる状況が日常化している日本の大学は、大きな矛盾を抱えていると言えます。知的障がい者に大学教育を開くという、日本の大学としては「大胆な取り組み」から、日本の大学教育のもつ課題が浮かび上がっているように思います。