学習院大学の正門Photo:PIXTA

日本の憲政史上、初めて譲位された上皇陛下。平成の天皇として知られているが、学友とともに過ごした青春時代の様子は、あまり知られてはない。上皇陛下の青年期の様子を紹介しよう。※本稿は、井上亮『比翼の象徴 明仁・美智子伝 上 戦争と新生日本』(岩波書店)の一部を抜粋・編集したものです。

開闢以来はじめて皇太子が
同年配の少年たちと過ごす

 1949年3月の明仁皇太子の中等科卒業が近づいてきたころ、問題が生じていた。皇太子の卒業後、中等科は小金井(編集部注/東京都小金井市)から戸山(編集部注/新宿区戸山)に移転することになっていた。皇太子は目白の高等科に通うことになる。小金井に住み続ける意味はなくなるので、バイニング(編集部注/バイニング夫人として知られるアメリカの作家、皇太子の家庭教師を務めた)は皇居内で弟の義宮(編集部注/のちの常陸宮正仁)と一緒に暮らすべきだと考えていた。

 しかし、侍従たちは全員がこれに不賛成で、小金井の光雲寮(編集部注/学習院中等科の学生寮)を改装して皇太子が週3日暮らす案を持ち出した。残り3日は御仮寓所、あと1日は皇居で過ごせばいいという。

 バイニングは皇太子が居場所をあちこち変えると生活に一貫性がなくなり、よい影響はないと見ていた。皇太子は高等科まで毎日片道40分、自動車で移動しなければならない。寮を存続させることで、そこに入る学生は往復4時間の通学を強いられる。入寮は志願制だったが、酷だと思った。それに皇太子が小金井での生活を嫌っていることをバイニングは知っていた。

 しかし、侍従や田島、小泉らは小金井での寮生活に不都合はあるものの、それを上回る利点があるとして、小金井残留案を通した。

 バイニングは不服だったが、「開闢以来はじめて日本の皇太子が自分と同年配の少年たちの中にたちまじって、若い者同士の民主主義的な雰囲気の中で生活しようとしておられるのだ。こうした民主主義こそ、自然で、無意識で、流れる水のように従順で執拗で、古くてしかもつねに未来に属するものなのである(*1)」と思うようにした。

 卒業を間近に控えた3月12日、朝日新聞の連載記事「日本の年輪」が10代の代表として皇太子を取り上げた。

「一国の将来はこの世代がにぎる、いわば国家のホープ、そしてこのホープ中の一方のチャンピョンはまず皇太子さまであろう」。

 メディアは皇太子を「日本のホープ」と呼ぶようになっていた。バイニングがさかんに「皇太子は日本の将来のホープ」と“宣伝”していたため定着していた。

 3月26日、学習院の卒業式が新宿区の戸山校舎で行われた。裕仁天皇、良子皇后が出席し、明仁皇太子が中等科を、姉の順宮厚子内親王が高等科を卒業した。皇太子は両親が見守るなか、安倍能成院長から卒業証書を受け取った。中等科小金井校は24日の終業式をもって閉鎖された。

*1 『皇太子の窓』260頁