約30人の学生がここから目白の高等科に通った。高等科3年生が半数で、あとは1、2年生だった。皇太子も水曜から金曜までの週3日は寮で過ごすことになった。バイニングは清明寮について次のように描写している。

「建物はH字形をしていて、正面の棟には、さむざむとした勉強室、食堂、暗い台所、湯殿が並んでおり、台所には御飯を炊く大釜と、冷たい水の出る蛇口がたった1つついている木製の流しがあった。

 裏手の棟には寝室が並んでいたが、南向きだったから、お天気のよい日には陽がよくあたるかも知れない。どれも同じ10畳の部屋で、昼間蒲団をしまっておく押入れがついていた。

 どの部屋にも低い木の机が2つ置いてあって、生徒はその机の前の畳に坐って勉強するのである。照明はただ天井からさがっている、白い笠のついた電灯が1つあるきりだった。殿下の部屋は、新しい畳の数が多いだけで、他の部屋とまったく同じだった。侍従が1人隣室に寝泊りし、他に御学友が1人殿下と御同室になるはずであった(*7)。」

 寮での起床は午前5時半。日直の寮生が廊下の太鼓を叩いて皆を起こす。お茶がらを使って畳の拭き掃除、朝礼、体操、朝食、登校という生活だった。暖房設備は図書館にダルマストーブ、1室2人の八畳部屋に火鉢が1つだけで、冬の寒さは厳しかった(*8)。皆、寝る前に唯一ストーブがある図書館で勉強して温まってから床に入った。

 寮で皇太子と1年間同部屋だった岩倉具忠は「ある時、『温まったらそのまま布団に入って寝られるように、夕方の4時ごろから布団を敷いておこうじゃないか』と皇太子さんと語らって、敷いちゃった。これが舎監に見つかりまして、『万年床はいかん、すぐしまいなさい』と、えらくお目玉をくらいました。2人で一所懸命、押入れに布団を押し込みましたね(*9)」と話す。食糧事情も悪く、食べ盛りの皇太子はご飯にソースをかけて食べることもあった。

*7 『皇太子の窓』259~260頁

*8 冨田ゆり、丸山美季「学習院・目白清明寮の歴史的価値について」(学習院大学史料館紀要2016年3月)10頁

*9 岩倉具忠「“万年床”」(〈御学友アンケート〉新天皇陛下の思い出)636頁