将来の希望について、学生たちの答えは様々だった。医者、科学者、銀行家、教師、ジャーナリスト、実業家、官吏、政治家、哲学者、作家、旅行家ーー。「偉人」という答えもあった。バイニングは明仁皇太子がどう答えを書くか興味があった。

 皇太子は「ぼくは天皇になるだろう」と書いた。当然のことだが、バイニングは「殿下が何になりたいかということは問題外だったのである。殿下は御自分の運命を自覚し、その運命を甘んじて受け容れられたのであった(*4)」と感じた。

 後年、皇太子は記者会見で「皇室に生まれなかったら、どんな人生を送られたと思いますか」と聞かれ、このときバイニングの質問に答えたことを回想し、「普通の日本人という経験がないので、何になりたいと考えたことは一度もありません。皇室以外の道を選ぶことができるとは想像できません(*5)」と答えている。

 はたしてそうだろうか。この年代で将来の夢を語れないことは残酷なことではないのか。3学期に入った翌年1月のことだが、学友の橋本明は皇太子の暗い言葉を記憶している。それは高等科での憲法の講義の時間だった。

 皇太子は隣の席の橋本を見つめて、ふっと言葉を漏らした。

「世襲の職業はいやなものだね」。

 日本国憲法第2条「皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する」を指して言ったのだろう。皇太子は微笑んでいたが、橋本にはその屈託のなさが「かえって親王の深層部分を押し隠している」ように見えた。

「将来の生活について選択権がない。皇太子は天皇になる以外に選択すべき道がない。意外性を当初から望むべくもない青春は、矢張り、灰色の世界を皇太子の生活環境に植えつけるものであったのだろうか(*6)」。

 ときに激しく感情が起伏する、悶々とした皇太子の青春時代が始まろうとしていた。

侍従たちは小金井の集団生活で
皇太子に何を学ばせたかったのか

 1949年4月、小金井の旧光雲寮は、高等科学生寮「清明寮」として再開した。学習院中等科が小金井を引き払い、皇太子だけがここに孤立することを避けるため、わざわざ通学に不便な場所に寮を残した。

*4 『皇太子の窓』270頁

*5 『新天皇家の自画像』567頁

*6 『知られざる天皇明仁』85~86頁