すると、「いやらしさがゼロ%とは言い切れない」ということに気づいた。筆者の場合は、ただ楽で着やすいしTPOを要求される場に行くことも少ないし、何よりかっこいいと思ってパーカーを着ているだけだったつもりなのだが、そこに「若い世代に若く見られたいからパーカーを着ている」という要素が、自覚はしていないがほんの数%ならひょっとしてあるのかもしれないと考えたのである。
筆者は若く見えることに大変定評があり、また自分でもそれを誇りに思っていた。しかし、ちょっと考えればわかることだが、「若い」と人から言われて喜ぶということは「自分の中から若さが失われつつある/すでに失われている」ということである。つまり、事実もう筆者は若くなく、そのことをまず自覚せねばならない。「若く見える」と言われて浮かれている場合ではない。
若くない年齢に達して、次に目指したいのは「かっこいいおじさん」である。そこで「かっこいいおじさん」像について考えてみると、真っ先に浮かんだのは「力が抜けているおじさん」であった。
力が抜けているおじさんはいやらしい思惑なくパーカーを着て、それがかっこよく見えるはずである。すると、自分が今パーカーに抱いている(かもしれない)いやらしい思惑と向き合い、滅することができれば、自分も「力が抜けているかっこいいおじさん」に一歩近づけるのではないか。ひとつ上のステージでパーカーを着こなせるのではないか――。
熾烈なパーカー論争で
おじさんが開いた「3つの悟り」
というわけで、今回の騒動を経て得た悟りは以下の3つである。
(1)情報化社会との、より心安らかな付き合い方
(2)すべての人を「運命共同体の同志」と考え、嫌いな人を減らしていける可能性
(3)パーカーをより格好良く着こなせる可能性
おじさんパーカー論争は最初はスケールの小さい内容の言及だったが、世間を賑わす大激論となったことで心を豊かにするヒントをいくつも見つけることができたのであった。