パーカーを着ているだけでなぜそこまで悪しざまに言われねばならないのか。また、「ムカついたということは少なからずおじさんパーカー論が効いているということであり、こしゃくな言説に自分の自覚していなかった矮小さが言い当てられたのかもしれない」と不安にもなり、そこも怒りにリンクしたのであった。
しかし、現代のこの情報化社会である。おびただしい量の情報が溢れている上に、炎上商法的な発信も散見されるので、毒や悪意のある発信をすべて避けて通るのは不可能である。
毒発信が飛び交う世の中で、極力嫌な気分にならずに過ごすために一個人が可能なことは何か。耳をふさぐのか戦うのか、言った相手をなんとかして愛するのか、いくつかの取りうる選択肢がある。
筆者が自分に一番フィットすると直感した対応法は「スルーする」。すなわち「毒発信を自分の中に『嫌なこと』として落とし込まない」であった。毒発信を真に受けてしまったり、発信者に怒りを感じたりすると心が疲れるので、それらに心を惑わされない境地をぜひ目指したい。しかし現実的にはそこまでの悟りを開くのはまだ難しいので、毒発信を「自分が生きているのとは別の次元で起きている出来事」という脳内フォルダに無理やり押し込んで、気にしないように努めた。要するに逃げとも言えるのだが、心の平穏を保つための積極的な一手である――。
といったことを筆者は、わかっているようで意外とわかっていなかった。もっと正確に言うと、そのノウハウが自分の血肉にできていなかったようなので、おじさんパーカー論争をきっかけに、不意にやってくるネットでの毒をきちんとスルーしていこうと、決意新たになれたのであった。
解釈を広げていけば
全人類がみな友達に
気づきの2つ目は、自分の代わりに戦ってくれる人のありがたさである。筆者自身は戦うとなると灰になるまで戦う気質があるが、そうなるとものすごく疲弊してそれが嫌なので、特にここ数年は戦いの気配がする場所から距離を置くように生活している。しかし理不尽な人が野放しになって活き活きしているのを見るのも嫌で、「誰か代わりに言ってくれないかな」と思わぬこともないではない。