今回は妹尾さんのおじさんパーカー否定論に対して何人かの言論人・著名人が反論を寄せた。その中には、筆者がかねてから全く共感できずにあまり好きではない人たちも含まれていたのだが、この件に関してはその人たちを「いけいけー」と本気で応援したのであった。彼らを応援したのは初めてのことであった。
共通の敵を前にすると一致団結しやすい人の真理があるが、まさしくそれが起きたわけである。我々は「おじさん」というひとつの運命共同体であり、「おじさん」という解釈・カテゴリの中で苦楽を共にできる頼もしき同志たちである。
「嫌いだった人を応援できた」という体験はやや照れくさいが心地よいものであり、自分の中に新たな愛が育まれる感覚があった。
また、自分の心の持ちよう次第では運命共同体を無限に広げることができることに気づいたのも、新たな愛の扉を開眼した思いである
妹尾さんとはおじさんパーカー否定論を巡って、筆者は個人的に一方的に対立している気持ちだが、地球にエイリアンでも攻めてきたらすぐさま運命共同体の同志として手を取り合える自信がある。すべてが自分の心次第であり、自分の心が他者との関係を自在に決定していけるという大いなる可能性は、興奮を催させる気付きであった。
嫌いな人より好きな人が多い方が日々は楽しくなるはずである。なら日々はもっと楽しくなる可能性に満ちていると思えたわけである。
それでもパーカーを着こなす
イケオジになるためには
最後の気づきは、「ひとつ上のステージでパーカーを着こなすことの可能性」である。どういうことか説明させてほしい。
おじさんパーカー否定論を受けて、それに憤りつつも、そこで指摘される「おじさんらしいいやらしさ」が自分に1%もないのかを自問自答してみた。「おじさんらしいいやらしさ」とは、パーカーを着ることで「自分はカジュアルを理解している親しみやすいおじさんだよ」といった考えを若者に向けて演出・表明しようとする行為である。つまり何かしらの下心がパーカー着用に隠されている状態である。