では「残心のある料理」の「残心」とは何か、ということです。

 たとえば、フランス料理だったらいっぱいいっぱいの塩を打つ。これ以上打ったら辛いですよというぐらいの塩を打つ。一方、私は、それよりは控えめの塩を打つ。たとえば「お吸いもの」ならば最初に飲んだ時にちょっと薄いんちゃうかと感じるぐらいで、最後まで飲むとちょうどええなというぐらい、それを「よし」としていたんです。

 でも、親父は「それよりも、もうちょっと薄めにせえ」というわけです。

 なぜか。そうすると、お客さんが2日か3日たって「菊乃井のおつゆ、うまかったな」と思う。そのくらいがええねん。そうすると、客はまた帰ってくるんや。

親父の料理哲学は
日本の文化の美学に通ず

 親父の判断基準からすれば、私の「控えめ」も「いっぱいいっぱい」に見えていたんでしょう。ですから「もうちょっと控えめにせえ」というアドバイスになったのでしょう。

「お前みたいにいっぱいいっぱい、何でもこれでもかとやっていると、料理に残心が生まれへんわ」

「いっぱいいっぱいにしない」というところに心の「ゆとり」とか「余裕」が生まれてくる。それが「料理の残心」であり「残心のある料理」と言うんや。「ゆとり」とか「余裕」を感じることができてこその「おいしさ」ではないのか。

 これが親父の料理哲学、美学だったんでしょう。「過剰にならない」「相手が入れる余白を残しておく」、これは日本の文化がずっと大事にしてきた美学でもありました。でも、若い時にはそれがなかなかわかりません。

「何言うとんねん、親父。2、3日後より、いまうまい方がええに決まっとるわ。斬新ならわかるけど、残心はわからんわ」

 いまならば、親父の「残心」哲学はなるほど深い話やとわかります。料理でも絵でも、いっぱいいっぱいではなくて、若干の余白が大事なんや、だから、残心あっての「おいしさ」や、ということがよくわかります。

 しかし、残心よりも斬新なアイデアやなどと考えていた若造には、なかなか理解の届かない境地だったように思います。