美術品に圧倒される
“キツネにつままれたような人”
男性は中年で、身なりがよく、話を聞くととても信心深いようだ。これほど古いキリスト教絵画が残っているとは知らなかったらしく、700年前の絵画がこんなに鮮明に見えるのが信じられないという。その絵は、卵の黄身と、すりつぶした野菜や昆虫や石とを混ぜ合わせた絵の具で描かれたと私が説明すると、男性は目がくらむような驚きに包まれた。
「それで、これは……その……岩屋で見つかったの?」
この男性は聞く側だったが、たいていの人は話す側だ。自分の考えを独り言のように語る人もいる。たとえば、いろいろ考えながら言葉を入念に選び、ゆっくりとだが熱心に、私に一人語りをしてくる女性がいた。私は、この女性にかかった魔法を解いてしまうことを怖れるかのように、なるべく動かないまま耳を傾けていた。

パトリック・ブリングリー著、山田美明訳
女性は、『アンデスの中心』という広大な風景画を見上げながら言う。
「ここの画家たちは優秀ね……こんなにきれいな絵を描いて……人間って自分の仕事にこれほど熟練できるものなのね……この絵は何カ月も、何年も心のなかにあって……それを思い出すたびに……安らぎの地に連れ戻してくれる……本当にすばらしい……写真を見て描いたわけじゃない……まさにこの風景を見て……それを描いた……」
私は特に、キツネにつままれたような人に尋ねられるのが好きだ。そんな人が好きなのだ。私に言わせれば、展示品に圧倒されてメトロポリタン美術館をふらふら歩いている彼らのほうが正しく、展示品に冷静に対処している教養人たちのほうが間違っている。キツネにつままれたような人たちは、実際に驚くべきものに驚いている。ピカソの絵がすぐそこに、自分の息が届くところにある。エジプトの神殿が解体され、ニューヨークに持ち込まれている。私はそれに驚く人々を見て、かつて持っていたいかにも俗物的な衝動を抑えられるようになったばかりか、そんな衝動を愚かなばかばかしいものと退けられるようになった。