メトロポリタン美術館、エントランスホールのドーム天井Photo:PIXTA

世界最大級の美術館の1つ、ニューヨークのメトロポリタン美術館。今でこそ権威ある美術館として知られているが、実はその歴史の中では偽造、盗難、不適切な修復作業など美術館としてあるまじき事件が数多く起きたのだという。警備員の視点から語られる、メトロポリタン美術館で実際に起きた驚きの事件を紹介しよう。※本稿は、パトリック・ブリングリー著、山田美明訳『メトロポリタン美術館と警備員の私 世界中の<美>が集まるこの場所で』(晶文社)の一部を抜粋・編集したものです。

1979年に起きたヘルメス像の消失事件
戻った頭像には謎の刻印が……

 私はある日の午後、古代ギリシャ・ローマ美術の展示エリアに配置された。そのとき、ベテランの老警備員であるホワイトホール氏が、何の変哲もない大理石製のギリシャの頭像のようなものを指差して言う。「これが誰かわかる?」

 私は知らなかった。

「ヘルメスだよ。これがグランド・セントラル駅のロッカーに入っていたというのは知ってる?」

 それも私は知らなかった。

「そう、じゃあ教えてあげるよ。私がここで働き始めてまだ間もないころ、1979年だったかな。聞くところによると、その日もふだんと変わらない日だったらしい。ただ、市内でツタンカーメン展が開催されていた。私たちが経験したなかでは最大のショーだよ。調べてみればわかる。だが、それがこの事件に関係していたのかどうかはわからない。おれにわかるのは、ギリシャ美術の展示エリアを担当していたある不運な警備員が振り返ってみると、それまで台座の上に確かにあったものがなくなっていたということだけだ。

 そして、それから数日が過ぎた2月14日、バレンタインデーの日に、警察に情報が届いた。このヘルメス(ちなみにヘルメスは盗人の守護神なんだそうだ)を探しているのなら、グランド・セントラル駅のロッカー番号何番を見てみるといい、とな。そこでサイレンを鳴らしながら駅に急行し、古びたバールを取り出し、ロッカーをこじ開けてみると、言われたとおり、このうつろな2つの眼窩と目が合ったというわけさ」

 私たちは2人でその頭像を見る。

「だが、奇妙なのはそこじゃないんだ。ここを見てみな。左目の少し上のところ……ここには以前から、大理石に小さなハートマークが刻まれていた。誰が何のためにそうしたのかもわからないし、偶然なのかどうかもわからない。とにかくそれは以前からあった。おそらくは何世紀も前からな。ところが」。そこでホワイトホール氏は不必要に声をひそめた。「ヘルメスが無事にここへ戻ってきたとき、右目の上にも第2のハートマークが刻まれていた。そろいのハートだよ。左目とそろいのハートが、右目にも新たに刻まれていたんだ!本当だよ、ブリングリーさん。調べてみるといい」(あとで確かめてみたところ、本当だった)