とうとう私がしびれを切らして口を開く。「シンさんは野球はお好きですか?」。私たちのまわりには、色とりどりの長方形の厚紙に印刷された野球選手の似顔絵がたくさん並んでいる。それが格子状に並べられて額装されているのである。ウィリー・メイズやハンク・アーロン、ホーナス・ワグナーはおろか、キング・ケリーの野球カードまである。キング・ケリーとは、1886年に1万ドルという破格の契約金でボストン・ビーンイーターズに移籍し、「1万ドルのケリー」と呼ばれた選手である。
私がそう尋ねると、シン氏は心からうれしそうに顔をほころばせながら、断固たる口調で言う。「いや、おれはクリケットが好きでね。これを見てみな」。
ガイアナ出身の主任が、19世紀の野球カードが展示されているところへ私を連れていく。当時は、熟練の腕できれいに重ね刷りされた多色リトグラフが、巻きたばこや刻みたばこの包みのなかに押し込まれていた。主任は、中堅手「ジャック・マギーチー」のカードを指差す。その選手は、まるで雨粒を受け止めるように、両手をおわんの形に丸めている。
シン氏が言う。「グローブなしだ!クリケットはいまでもそうだよ。どうだい?わかるかな?空中に飛んでいるボールをこれだけでつかみ取るんだ」。
そう言いながら、しわだらけだが血色のいい手を私に見せる。私はテレンスからクリケットのことを多少教えてもらってはいるが、シン氏の話についていけるほどの知識がない。私が何も知らないことを伝えると、主任はすぐさま打撃の構えや投球の方法を教えてくれる。
3万枚の野球カードの収集家は
実は野球に興味がなかった!?

パトリック・ブリングリー著、山田美明訳
「ほかにも野球が好きじゃなかった人がいますよ。わかりますか?」と私が尋ねる。今度は私の番だ。「ジェファーソン・バーディックですよ!野球の殿堂があるクーパーズタウンを除けば、この美術館には3万枚という野球カードの最大のコレクションがありますけど、それは、試合を1度も見に行ったことのないシラキュースの電気技師のおかげなんです。バーディックは野球には興味がなかった。興味があったのはカードなんです。絵葉書とか、折り込み広告とか、メニューとか、バレンタインカードとか……
彼はそんなはかないものを集めていたんですが、それぞれのカードに1ドル以上払うことはなかった。いまでは数千ドルもの価値があるカードもあるのに(ホーナス・ワグナーのカードは数100万ドルもする)。バーディックはこうして25万点以上のアイテムを集めると、1947年にメトロポリタン美術館を訪れた。そしてスケッチ・版画部門に入り、その目録の作成に晩年の生涯を捧げたんだそうです」
すると、いまだ記憶に残るクリケット選手を演じていたシン氏が言う。
「バーディックというのはおもしろい人間だったようだな。いまなら一流の警備員になれただろうに」