
納税者なら誰しも、公金の使い道には関心を持つ。そうした声を反映し、国立大学に「競争」を導入すべく制定されたのが2003年の国立大学法人だ。だが、あれから20年が経ち、各大学の競争には、きしみばかりが目立つようになってきた。本稿は、竹中亨『大学改革―自律するドイツ、つまずく日本』(中央公論新社)の一部を抜粋・編集したものです。
市場として成立しにくい
高等教育機関に競争原理を導入
学術の世界では、研究者個人がより優れた成果を求めて競いあうことは大昔から行われてきた。しかし、高等教育機関同士が競争すべきだという考えが生まれたのは、実は比較的最近、すなわちおおよそ20世紀末のことである(編集部注/この頃、多くの主要国で高等教育進学率が50パーセントを超えるようになり、大学に効率的な運営を求める納税者の目が厳しくなった)。
わが国では、おそらく2001(平成13)年の「遠山プラン」が最初であろう。これは、当時の遠山敦子文科大臣が発表した大学改革プランで、国立大学法人化の原点となった文書である。同プランは、大学に「競争原理を導入する」と明記している。
以上のことから、大学間競争はNPM的改革(編集部注/NPMとは、ニュー・パブリック・マネジメント。1970年代以降、新自由主義の影響下、民間の手法を取り入れた公共経営が求められるようになった)と深く関連していることがわかる。NPMは公共サービス経営を市場環境のなかに置き、互いに競争させることで、業務の効率化を実現しようとした。
そうであれば、NPMを高等教育の世界に適用した場合、大学同士が競争することになるはずである。実際、クラーク(編集部注/アメリカの教育社会学者)をはじめとして、現代における高等教育の趨勢の1つとして市場化をあげる論者は少なくない。
だが、高等教育ではほんとうに市場は成立するのだろうか。というのも、市場がなりたつには、需要と供給の双方の側で不特定多数のプレーヤーが存在することが前提である。
しかし、これは高等教育にはあまり該当しない。せいぜい、学生獲得をめぐって諸大学が競うという場面くらいである。優れた研究者の獲得をめぐって競いあうのも市場競争とは言いがたい。需給双方のプレーヤーの数が少なすぎる。
しかも、学生獲得についても、「受験市場」なる言葉とはうらはらに、市場的状況は限定的である。「商品」として提供される教育プログラムは大学によって差異が大きい。
また、受験生の志望する学部・学科がどこの大学にもあるわけではない。さらに立地面の制約がある。国立大学にかぎっていえば、一地域に少数しか存在しない。
他方、東京にある大学の教育がいいからといって、だれもが東京に進学できるわけでもない。以上の状況は、教育のオンライン化が今後進んだとしても、根本的に変わるものではあるまい。
こう考えるなら、高等教育はむしろ「典型的な『市場の失敗』領域」なのである(南島 2013:129)(注1)。あるいは、せいぜい擬似的市場の可能性しかない。