「障害」と「能力」を
同一平面上に置く危うさ

 この投稿者が示唆している通り、現実には、発達障害の当事者がみな特殊な能力に恵まれているというわけでないし、また事例として名前が挙がるような成功者たちにしても、必ずしもその成功の要因が発達障害の特性だけで説明できるものでもないだろう。

 ここには障害と能力という、本来なら独立して別次元で語られるべきものが、不用意に同一平面に置かれてしまっているような印象も受ける。解説書の多くでは、発達障害の具体的な症状は人それぞれ、極めて多様であることが強調されているが、ならば同様に一人ひとりの備える能力や才能も本来多様であるはずだろう。

 さらに付言するなら、発達障害にはかつて、この概念が世に知られ始めた初期段階においては、その特性がある種の犯罪傾向と結びつけられて流布したという経緯もあった。世間の注目を集めた少年事件において、加害少年の精神鑑定の結果が「アスペルガー症候群」と診断される状況が相次いだことが、この概念を世に広く知らしめる最初のきっかけでもあったからである。

「発達障害は個性であり、豊かな才能の証し」という言説に垣間見える「危うさ」とは?『個性幻想――教育的価値の歴史社会学』(河野誠哉、筑摩選書、筑摩書房)

 のちにそうしたイメージが偏見や誤解を招いているとして、たびたび注意喚起がなされるという経過をたどるのだが、ここで発達障害を特殊な才能や卓越性と結びつける理解の仕方は、それとはちょうど逆の構図ということになる。方向は正反対でも、しかし、結果的に同じレッテル貼りが繰り返されているということにはならないだろうか。

 発達障害をめぐる状況は、個性概念の社会的な有り様について考えるうえでの最近年におけるテーマとして位置づけられるものである。「個性」は今日においてもなお、混乱を引き起こすタネであり続けているのである。