発達障害は「個性」と
相性が良かった

 他方ではよく知られている通り、発達障害関連の診断は、もっぱら医師による「診たて」によってなされるのであって、それを判定するための客観的な検査というものが存在しているわけではない。こうした状況のもとでは、いわゆる「グレーゾーン」に対する判断には微妙なものを含まざるを得ないことは道理だろう。

 極端なケースとしては、ふだんから不適切な行動をとる児童生徒を、「発達障害」とラベリングすることによって通常学級から排除してしまうというような逸脱も、なるほど不可能ではないわけである。

 実際のところ、症例によって特性の現れ方は非常に多様とされつつも、診断そのものは「個性の範囲か、それとも障害か」という対抗軸のうえで語られがちである。したがって、いわゆる「大人の発達障害」のケースに至っては、「これまでずっと個性の範囲だと思い込んでいたが、じつは障害だった」という事態が起こってくる。

 かくして、それまでは当人自身も「個性」の範囲だと考えていたものが、いったん「障害」のカテゴリーへと移行し、そしてふたたび「発達障害も個性」というレトリックでもってノーマルの範疇へと回収し直されるという複雑な構図が展開されたりもするのである。

 以上のように発達障害は、数多ある障害の下位カテゴリーの中でも「個性」への近接性という点において、きわめて独特の立ち位置を占めていると言える。その意味では「障害も個性のひとつ」という定型的表現に対して、最も「相性が良い」のが発達障害だという言い方もできるだろう。

 当事者たちにとっても比較的納得して受け入れられそうにも映る。もともと「個性の延長」としてのイメージがあるために、「包摂のレトリック」として、すんなりと収まりやすいという一面があるはずだからである。

 しかしながら実際のところはというと、現実に起こっている事態は実はそれほど単純ではない。特徴的な現象として、ここでさらにもうひとつ注目したいのは、発達障害をめぐる語りにおいて、もともとは「包摂のレトリック」であったはずのところに「差異化のレトリック」が紛れ込んでくるケースがしばしば認められるという事実である。