障害をめぐる語り方のこれまでの展開からしてみると、これは思わぬ先祖返りというべきで、ここには障害個性言説が行きついた奇妙な逆説を想起させずにはおかない。
「障害は個性だ」に
反対する声
こうした成り行きは、どのように説明できるのだろうか。さしあたっての仮説的見通しとしてはこうである。既述の通り発達障害は、「個性」に対して格別に親和性の高い存在であった。となると、「障害も個性」も単なる常套句の段階にとどまることなく、より具体的に「では、それはいかなる個性なのか」という次のステップへと向かいやすい。
つまり個性概念に近接しているからこそ、かえって旧来型の「差異化のレトリック」を呼び込んでしまいやすいということではないのかと思われる。
もちろん、より直接的にはそれは、「障害」のラベリングに伴う不利を、緩和ないし反転させようとする言説上の戦略でもあるのだろう。
しかしながら現状をみるかぎり、こうした顛末は、もともと混乱含みだった障害個性言説の中でも、さらにもうひとつ攪乱的な要素を加味している一因になってしまっているようにも思われる。特に発達障害の当事者にしてみれば、それは希望の言説としてよりも、むしろ困惑の材料として受け止められる場合も少なくないのではないだろうか。
たとえば障害当事者による次の投書記事はそうした一例である。
当事者自身が「自分の障害は個性だ」と言うのならいいと思う。しかし第三者が言うのは、自らに都合のよい解釈の押し付けではないか。その底には「社会的に有益な者こそ価値がある」という前提を感じる。
障害は当事者にとってはやはり苦しいものなのだ。私は発達障害の診断を受けている。少し込み入った話は理解が困難で、学習障害があり、対人関係が不器用で、周囲から孤立しがちだ。務まる仕事は単純作業だけ。外国語など多少得意なものはあるが生計を立てられるほどの技能、才能は何もない。生きづらかったが、四○代になってようやく人との接し方も身につき、伴侶も得て自分の着地点を見つけた。自己実現はできていないけれど、自分はこれでいい。
才能がなくても、働いていなくても、障害者の生存がそのまま認められる社会であってほしい。(朝日57)