また、16歳になったばかりの娘も一緒にこの説明を聞いていました。都合の悪いことは聞こえてこない私と違って、娘には医師の一言一言が胸に突き刺さりました。

 彼女は「動くこともできず、そのうち細胞が壊死し始めると、延命をやめるかどうかという話になる」という言葉をしっかりと聞き取っていました。

「自分たちが父の生死を判断することになる」と理解した娘は、ずっと泣いていました。後から振り返ってみても、いろいろあった中で最も辛い時間だったそうです。

 そしてこの、医師の説明を娘と共に聞いてしまったことが、私にとって大きな後悔を残しました。考えようによっては、余命宣告に近い深刻さでしたし、仮に私1人が説明を受けたとしても、それをどう子どもに説明するかという厳しい状況を、私がうまくこなせた気もしないので、結果はそう変わらなかったかもしれません。

 しかしその時点では、やがて夫もそれなりに回復をして、日々を笑いながら過ごすようになることなど、想像もできないわけです。最悪の状況を踏まえた絶望的な告知に、子どもを巻き込むことの重大さまで考えがいかなかったのは、私にとって痛恨の出来事となりました。

重度の脳梗塞という診断
開頭手術することに

 重度の脳梗塞という診断のあと、弘前大学医学部附属病院への転送はすぐに決まりました。私たちは、4日前に乗った救急車にまた乗りこみました。生死がかかっている時の救急車内は緊迫感が漂います。

 私はまず、家族に連絡を取りました。義母、母、弟、従姉妹。仙台市に長く住んでいた義母は、当時弘前に移り、近くに住んでいました。秋田に住んでいる母、東京にいた弟、茨城にいた従姉妹、そして弘前に在住している夫の大学時代の同級生の方。みなすぐに、取るものもとりあえず遠方から駆けつけてくれました。

 慌ただしく検査が行われる中で、大学病院の先生方から説明がありました。

「胸部大動脈解離を発症してからこれまで、本当にいろいろと大変だったことでしょう」

 と労りのことばをかけつつ、たくさん並べられた夫の頭蓋骨の写真を見ながらの説明が始まりました。病名は心原性脳梗塞で、次のような症状がでるそうです。