あるとき、その育子さんがついに実力行使に出た。それも、持ち前の知的能力と機転を活かした大胆な行動である。

 行楽行事を終えて、私が数人の利用者とともに送迎車でT作業所に戻ってきたときだった。すでに到着していた電車組引率の女性職員の1人が、困惑気味にこう言ってきた。

「本宮さん(育子さん)、帰りに駅前の交番に駆け込んだのよ。『虐待されてます!助けてください!』って。Jさんが慌てて追ったけど、いま2人は警察官の事情聴取を受けてるところよ。本宮さんは電車のなかでもシートの匂いを嗅ぐし、ホント困ったものだわ」

「そんなことがあったんですか」

 私は答えた。が、心の底では彼女の勇気に対する拍手喝采を送っていた。

助けを求めた行動に
買い物禁止の懲罰

 利用者の大半が携帯電話を所持していない。グループホームには電話があったが、それにはロックがかけられている。発信するときは、暗証番号でロックを解除しなければならず、利用者にはその暗証番号が教えられていなかった。おまけに、ほとんどの利用者がT作業所に小遣いを管理される身。休日の外出も禁止され、1枚の切手さえ買うことができない。

 つまり、外部に窮状を訴えようにも、彼らには肝心要の通信手段が用意されていなかったのである。

「本宮さん、一石を投じたと思いますよ」

 私はそう付け加えたが、一方ではその一石もJさんによって打ち砕かれるのではないか。そういう危惧も抱いていた。

 Jさんの弁舌は理詰めで滑らか、ときに詭弁も巧みに操る。そのJさんが一緒で、はたしてどこまで育子さんの訴えが届くのか。

書影『知的障害者施設潜入記』(光文社新書)『知的障害者施設 潜入記』(光文社新書)
織田淳太郎 著

 その後、2人は本署に身柄を移され、そこでも事情聴取を受けたが、案の定「虐待は認められない」として解放された。

 育子さんを待っていたのは、またもや買い物禁止の懲罰だった。交番に駆け込んだこと。電車内でシートの匂いを嗅いだこと。この2つが理由である。

「もうイヤだ、ここ」

 育子さんはうち沈んだ表情で何度も言った。

「私、いつまでここにいなくちゃいけないの?死ぬまで?ここ早く出たいよ。違う施設に行きたいよ」