核武装や銃所持、
ワクチン拒否の共通点とは
政治的には、ゲーム理論は冷戦時代の理不尽な軍拡競争においてその価値を証明した(注3)。知識人の多くにとって、冷戦世界は単純に正気を失っているかのように見え、ライバルは受け入れようのないイデオロギーで理性が毒され、そのため人間として劣っている、あるいは邪悪であると思えた。
しかし、そのように考えることには、問題を解決不可能な非日常的なこととみなしてしまうという致命的な欠陥がある。実際には、武力による相互抑止というシナリオこそに問題の核心がある。ほかのみんなが核で武装するのなら、私も核兵器をもったほうがいい。ほかのみんなが核武装しないのなら……もっていればさらに有利だ。
社会問題の多くも、同じように説明できる。アメリカの銃所有者は、銃をもっているほうがもっていないよりも安全だと言う。自衛はほとんどの国民から正当な欲求と理解されていて、そのため米国銃ロビー団体は、効果的な規制、特にアサルトライフルのような高性能武器の規制への呼びかけを、東海岸の腰抜けどもやワシントンのエリートたちの際限ないコントロール欲の症状だと言って批判する。
しかしゲーム理論を用いれば、そのような主張はナンセンスであることがわかる。実際のところ、武器の所有という個人的には合理的な行動も、集団としては合理的ではないのだ。みんなが武器を所有すると、個人の自衛という利点があっという間に「消えて」なくなる。そのため、どんどん大きな武器を買うしかなく、最後には戦車がなければ近隣の安全が確保できなくなる。その戦車でさえ、そのうち頼りなく思えるに違いない。
コロナ禍のころ話題になったワクチンの接種拒否問題も、もとをたどれば集団行動の問題に行き着く。主張される予防接種のリスクのほとんどは空想の産物に過ぎないのだが、小児科の待合室で他人の病弱な子供たちに囲まれて半日を過ごしたいと願う者がいるだろうか?
そのあげくに、自分の子は腕に注射針を刺されて泣き叫ぶのである。もしほかのみんなが予防接種を受けるのなら、集団免疫の利を享受できるため、自分の子にそんなつらい思いをさせる必要はない。接種率が集団免疫に必要なレベルを下回れば、感染者が増えるため、個人として予防接種を受けることがふたたび合理的になる。