そう言って電話を切った神田が、その瞬間に喜びを爆発させなかったのは、注文の意味を理解していたからだった。
「これは採用試験的な納品でした。新社屋で働くAppleの職員は1万人に近いと聞いていました。このテストに合格すれば、数千脚という発注に繋がるかもしれません。営業面でも品質面でも信頼を勝ち取り、この試作品で最初のハードルをクリアしなければならない」
工場にいる山中武と洋に数百脚の注文とその意味を伝えると、すぐにAppleのためのHIROSHIMAが作られていった。
2014年4月、マルニ木工はHIROSHIMA数百脚をアメリカへ向けて出荷する。
それから3年後の2017年に完成するApple Parkに数千脚のHIROSHIMAが並び、約9000人(当時)の社員が日々この椅子に座ることを、武も洋も神田もまだ、知るはずもなかった。
ジョナサン・アイブとの写真に
Apple Parkへの納入を実感
2015年3月、『FINANCIALTIMES』が発行する雑誌の表紙を飾ったのは、Appleの最高デザイン責任者であったジョナサン・アイブだった。カジュアルなデニム素材のスーツに薄紫のシャツ、スェード靴のアイブとともに写っていたのは、HIROSHIMAアームチェアだった。
ジョナサン・アイブは、スティーブ・ジョブズ亡き後Apple Park建設の総指揮を執っていた。
4ページの特集では2015年3月に発売されるApple Watchが取り上げられていた。その記事でもアイブとともに写るHIROSHIMAは、時期から見て、明らかに2014年4月にマルニ木工が発送した数百脚のうちの2脚だった。
のちにアイブ本人の証言で明らかになるのだが、アイブは新社屋完成のために「実験棟」なるものを建設し、建物だけでなく、オフィス内側の精密な検証も行っていた。オフィスとなるスペースを実際に完成させ、そこで使用する機器や家具を設置し、その使用感を試していたのである。
アイブがマルニの家具を検証していることも、実験棟の存在も知る由もない武、洋、神田とマルニの社員たちは、アーキテクチュラの担当者から「FINANCIALTIMESに、ジョナサンとともにHIROSHIMAが写っている」と知らされ、激しく喜んだ。
「スティーブ・ジョブズさんのいなくなったAppleで発売される製品のデザインの最高責任者であるジョナサン・アイブさんとHIROSHIMAが一緒に撮影された。そのことが、とにかく純粋に嬉しかった。こんな有名な雑誌の表紙に載せるのだから、Apple本社のオフィスの家具にHIROSHIMAはきっと採用される、と期待に胸を膨らませました」