【地図で学ぶ世界史】中国『大運河』の”超意外な役割”とは?
「地図を読み解き、歴史を深読みしよう」
人類の歴史は、交易、外交、戦争などの交流を重ねるうちに紡がれてきました。しかし、その移動や交流を、文字だけでイメージするのは困難です。地図を活用すれば、文字や年表だけでは捉えにくい歴史の背景や構造が鮮明に浮かび上がります。
本連載は、政治、経済、貿易、宗教、戦争など、多岐にわたる人類の営みを、地図や図解を用いて解説するものです。地図で世界史を学び直すことで、経済ニュースや国際情勢の理解が深まり、現代社会を読み解く基礎教養も身につきます。著者は代々木ゼミナールの世界史講師の伊藤敏氏。黒板にフリーハンドで描かれる正確無比な地図に魅了される受験生も多い。近刊『地図で学ぶ 世界史「再入門」』の著者でもある。

【地図で学ぶ世界史】中国『大運河』の”超意外な役割”とは?Photo: Adobe Stock

中国「大運河」の“すごすぎる役割”とは?

 本日は、中国、宋の時代における経済と物流について解説します。

 宋代の中国における商工業の活性化は、目を見張るものがありました。江南と呼ばれた長江下流域では、米の生産量が大きく向上し、当時のことわざで「蘇湖(長江下流域の蘇州・湖州)熟すれば天下足る」と称されるまでになります。

 また、長江流域の湿地帯の開発も進み、これによりゴマやサトウキビといった商品作物の生産も活性化します。さらにこの時期に注目すべきが茶の流通です。茶はもともと高級品でしたが、唐の末期にはすでに喫茶の風習が広まりつつありました。茶は北方民族への輸出品としても重要視されます。

 茶がたしなまれるようになると、これを入れる茶器も趣向を凝らしたものが登場し、関連して窯業すなわち陶磁器の生産も活発になりました。宋代は青磁や白磁といった、単色の地の色にあえて模様をつけないシンプルなデザインが好まれ、この他にも黒色や茶色、紅色なども登場します。窯業では現在でも名高い景徳鎮や、龍泉窯などが生産地として有名になります。

 国内産業に加え、宋代には海外貿易も活発となります。北方民族の台頭により陸上貿易路が断たれたことで、代わって海上貿易に力を注ぎます。政府が海上貿易全般を管轄した市舶司という機関が、唐代に設置された広州をはじめ、泉州、明州(現・寧波)などにも置かれ、様々な貿易品が取引されます。

 なかでも宋の銅銭である宋銭は、信頼度の高い貨幣として東アジア各地に盛んに輸出され、日本もその例外ではありませんでした。重量のある宋銭の束は、船底のバラスト(船底に積む重し)としての役割もあったようです。

大運河がもたらしたものとは?

 この国内産業と海上貿易は、さらに大運河の存在によって結びつけられることになります。そもそもこの「大運河」とは、隋の2人の君主、文帝(楊堅:在位581~604)と煬帝によって建設されたもので、大部分が煬帝の治世によるものです。隋は大運河の建設により国家としての寿命を縮めましたが、大運河は後の唐・宋において重要な役割を担います。

 では、その大運河の経路です。下図(図25)を見てください。

【地図で学ぶ世界史】中国『大運河』の”超意外な役割”とは?出典:『地図で学ぶ 世界史「再入門」』

 時代によって変化しますが、ここでは宋代の経路にもとづいて見ていきましょう。大運河の北の終着点は北京(厳密にはこの時点では天津までで、元の時代に北京まで延長)であり、ここは万里の長城に近い戦略上の要地でもあります。南に下って黄河と華南に続く運河(通済渠)との合流点が開封であり、ここは物流の中心として五代十国の諸王朝や北宋で首都とされます。さらに揚州で長江と合流し、これが杭州まで延び、南の終着点となります。

中国における「物流の大動脈」になる

 ここで注目したいのが、杭州のさらに南の沿岸です。杭州の南には、福州、泉州、広州といった海上貿易(南海貿易)の要地が控えています。

 ここから見えることは、海上貿易で取引された輸入品は、一旦明州(寧波)を経由して杭州に集積され、さらに大運河と黄河・長江を通じて中国全土に行き渡るという流れです。もちろん逆もまたしかりで、中国各地の物産が、これも大河や大運河を経由して華南の港市にもたらされ、ここから海外へと輸出されるのです。

 まさに大運河は、中国における物流の大動脈として機能するのです。これは北宋(開封)、南宋(臨安=杭州)、元(大都=北京)、明(南京→北京)、清(盛京→北京)と、以降の王朝の首都が、いずれも大運河沿線に位置する諸都市に置かれたことからもうかがえます。

(本原稿は『地図で学ぶ 世界史「再入門」』を一部抜粋・編集したものです)