江戸時代の流通ルートを支配
強い影響力を持っていた問屋

 まず、「そうは問屋が卸さない」という言葉の成り立ちを簡単におさらいしよう。

 もともと江戸時代に、都市と地方を結ぶ流通ルートが整い始め、生産地での農産物や工業製品(当時の工芸品など)が都市部に集中的に運ばれた。その際、莫大な量の商品を仕入れ、小売商や仲買人に卸す役割を担ったのが問屋である。問屋は業種ごとに組合を組織し、幕府や藩の許可を得て商売を独占的に行うことが多かった。江戸時代の大都市であった江戸・大坂・京都などでは、問屋が取引や価格決定において大きな力を持つようになった。

 例えば、大阪は「天下の台所」と呼ばれるほどで、膨大な物資が集まり、そこから江戸をはじめとする各地へ商品が流れていった。問屋は仕入れから卸売までの流れを把握し、流通ルートを事実上コントロールしていた。小売商や地域の商人は、大量の品物を安定して仕入れるには問屋を通すほかなく、問屋が定める条件や価格帯を受け入れざるを得ない面が大きかった。

 こうした構造が生まれると、買い手の側が「もっと安く多く仕入れたい」と思っても、問屋の意向や在庫、組合での取り決めが優先されるため、必ずしも思い通りにならない。ここで「そうは問屋が卸さない」とは、「問屋はそんなに都合よく卸して(売って)くれない」という意味合いで使われるようになった。

 やがて、江戸中期以降、経済や人口がさらに拡大していく中で、こうした言い回しが広く庶民の間にも定着し、商売だけでなく人生や社会全般にも当てはまる「物事はそう簡単にはいかない」という警句のように使われはじめたと考えられる。

 しかし明治維新以降、欧米の制度や技術が導入され、日本の商習慣や流通形態も少しずつ変化していく。

 近代化に伴う鉄道・港湾の整備や、自由な商取引が許される風潮の広まりによって、江戸時代のような問屋の独占的な権力は徐々に崩れていった。

 とはいえ、それでも「問屋」という存在自体は20世紀中盤まで影響力のあるものとして残り、商品の一括流通を担う中間業者としての機能を保ち続けた。そこには、戦後復興期においてもまだまだ問屋制度が色濃く残る業界が多かったという事実がある。