しかしこの度の引越しで失ってもっとも惜しく思われたのが、ご近所さんとのつながりであった。とにかく素晴らしいご近所さんたちで、特にお隣さん、お向かいさんは端的に言って神であり、非常に心地よい環境で過ごさせてもらうことができたのだった。

 人とのつながりは最初が一番大変だが、仲良くなったあとに待っている心安らかな関係は得難いものである。

 ただ距離が近くなるとお互いにアラや嫌な部分が見えてくるのも常である。その点でもフランス発祥「隣人の日」は、アラが見える前の距離で切り上げられるのが素晴らしい。町内会運営の実務を通してとなると付き合いが深くなるので不満や衝突が出てくる可能性があるが、隣人の日はとりわけ表層的な部分を撫でるので後に残るのは互いの友愛が確認できた心地よさだけである。

 そして一度顔見知りになっておくだけで、「そのご近所さんが住む領域=ご近所」がまるでわが家になったかのような安心感に包まれる。

「感じのいい人」になるための
とっておきの方法

 馬鹿にできないのが挨拶である。声を交わしたことのなかったご近所さんを「なんとなく気に入らないやつ」と見ていたが、挨拶してみたらいい挨拶が返ってきて「とても感じのいい人」と認識を改めることがある。恥ずかしいほど単純だがこれが人間心理であり、こんな簡単なことでご近所を住みよくできるならぜひともやった方がよろしい。

 とはいえ挨拶はスイッチを入れていないとするのが難しい。都会に戻ってきた今また思うことは、都会の大人は挨拶が極端に苦手に見えるので、もう少しオープンに挨拶できた方がきっと住みよくなるということである。

 人が多いし、犯罪もあるし、ご近所に興味なくツンと生活することになんの不自由もないだろうし、日々忙しいからご近所関係に時間を割くことは願い下げであろうが、挨拶くらいなら歩きながらのついでにできるので、ぜひしてみてほしい。

「広がれ挨拶の輪」――これが田舎に5年住んで得た結論である。子どもの頃やけに挨拶を元気にするおじさんが異質に思えたものだが、今私もそのおじさんになりつつあるのかもしれない。

 だが大前提として、ご近所さんは言ってみればガチャである。モンスター住民が1人いるだけで周辺の住み心地はめちゃくちゃになるし、そこまでいかなかったとしても、そりが合わないご近所さんも、人と人なんだから、いて当然ある。それらのことは一度住んでみないとなかなかわからない。

 危険なご近所さんは回避して、大丈夫そうなご近所さんと挨拶をして安心エリアを広げていきたいところである。