2017年の発売以降、今でも多くの人に読まれ続けている『ありがとうの魔法』。本書は、小林正観さんの40年間に及ぶ研究のなかで、いちばん伝えたかったことをまとめた「ベスト・メッセージ集」だ。あらゆる悩みを解決する「ありがとう」の秘訣が1冊にまとめられていて、読者からの大きな反響を呼んでいる。この連載では、本書のエッセンスの一部をお伝えしていく。

ありがとうの魔法Photo: Adobe Stock

よき友を得ることは、聖なる道のすべてらしい

 お釈迦様の弟子のひとり、アーナンダは、25年間、お釈迦様の付き人をしていました。

 ある日、アーナンダは、お釈迦様にこう尋ねます。

「お師匠様、よき友に出会うことは、聖なる道の半ばまで来たと思って、いいのではないでしょうか?」

 私の考えでは、「聖なる道」というのは、「心に曇りや苦しみがなく、明るく穏やかに生きて行くこと」という意味ではなかったかと思います。

 アーナンダの問いかけに、お釈迦様は答えました。

「アーナンダよ、よき友を得ることは、聖なる道の半ばではない。聖なる道のすべてである」

 お釈迦様は、こう説明したそうです。

「私(お釈迦様)を友にすることによって、人は老いる身でありながら老いを恐れずにすみ、病むこともある身でありながら病むことを恐れずにすむ。必ず死すべき身でありながら、死の恐れから逃れることができる。よき友を持つことは、幸せに生きる絶対条件なのだ」

 師匠を「友」と呼ぶことに異論もありそうですが、お釈迦様の言う「友」とは、遊び相手や遊び仲間のことではないと思います。

 本来の「友」とは、遊び相手とか遊び仲間というようなものではなくて、人生上の悩み・苦しみ・苦悩・煩悩を少しでも軽減してくれるような「気づき」を与えてくれる人のようです。

 それは同時に、自分もそういう存在になることが「よき友」と言われる条件ということでもあります。

 自分も「よき友」と呼ばれるような存在になって、互いに教え合い、学びや気づきを知らせ合うことが、「友」という関係なのかもしれません。

「友」という存在の本質を理解するには、「『幸せ』とは何か」を正しく認識する必要がありそうです。

「幸せ」とは、何かを手に入れることでも、思い通りにすることでもなく、「今の自分が『幸せ』の中に存在していること」を知ることだからです。

「得ること」や「手に入れること」を求めている限り、本当の「幸せ」はやってこない気がします。

 なぜなら、思い通りに得られるものなど、ほとんどないからです。

「こんなことを感じた」「こんなふうに思った」ということを語り合うことで、重荷を減らし、ラクになり、生きることが楽しくなる。そういう仲間こそが、お釈迦様の言う「友」だと私は解釈しています。

 私が思うに、「友」と「師匠」の違いは、「一方通行」と「相互通行」の差ではないでしょうか。

 お互いに、「こんなことがわかった」「こんなことを知った」と教え合い、語り合うのが「友」の本質だと思います。

 おそらくお釈迦様も、アーナンダの何気ないひと言から多くのことに気づき、学んでいたのではないでしょうか。

 その意味でアーナンダは、お釈迦様にとって真の友だったのかもしれません。