校庭の入り口のところにでかい樟(くすのき)があった。

 通称どんどんという川で泳ぎ、広瀬神社では相撲をとり、岡城址にもよく行った(これもいまは「岡城跡」というようだが、わたしにとっては、あくまでも「岡城址」である)。

 竹田駅の背後は崖山になっていて、その上の森のなかで遊んだ記憶がある。

 いつなにをするにも、わたしとマー坊ちゃんとイクちゃんとゴトーの4人だった。山のなかで、隠れ家を作った。岩の上から転げ落ちたこともある。

 町が一番活気づいたのは、夏祭りのときだった。

 町内ごとに神輿を担ぎ、子どもたちは「チョーサじゃ」と叫びながら、太鼓を叩いて、市内を練り歩いた。

「チョーサ」とはなんだったか、わからない。町祭?

観光地化したふるさとに
興味がわかない理由

 夕方には、魚町通りの端から端まで、道の真ん中に長テーブルと長椅子をずらーっと並べて、酒盛りがあった。

 当時は魚町全員の一体感があった、とまではいわないが、ある程度の一体感はあったと思う。保険会社の支部長をしていた父親は、仕事柄交際範囲が広く、母も遠く離れた商店の人たちとも交流があった。

 わたしたち兄弟は、隣の久保菓子店のお姉さんとおばあさんに可愛がられた。店にのべつに入りびたり、とくに可愛がられた三男は夕飯までいただいたりした。

 町内の子どもたちも、年上の人は18歳くらいから、わたしたち小学校低学年の子までいて、仲がよかった記憶がある。

 いまでも下町の商店街や、田舎町の商店街などでは、市民同士や町民同士のそのようなまとまりはあろうかと思う。

 わたしにとっては、町民同士の和気藹々の雰囲気を感じることができた、唯一の経験だった。

 しかし竹田では、なにぶん子どもだったので、町の細かいことは覚えていない。瀧廉太郎の旧宅や武家屋敷や、名物らしき魚の頭料理などは知らなかった。

 豊後岡藩の城下町ということも後年知ったのである。

 しかし、それでいいのである。

 現在は観光に力を入れているようだが、観光地としての竹田に、わたしは興味がない(「竹楽」というイベントで、町中を、竹灯籠の燈で盛り上げようとしている)。