平気で人をいじめたりすることができるのか、まったく理解できない。

 1970年(昭和45年)代から、いじめは増えたといわれる。

 なにかが変わったのだろう。

 70年代に、国民の9割は自分を中流だとみなすようになった。そういう時代があったのである。いわゆる一億総中流社会だ。

 そのことと、なにか関係があるような気がするが、よくわからない。

物質的な幸せと引き換えに
何かを決定的に失った日本人

 無理に要因らしきことをいくつか挙げてみたところで、意味はない。それらが正しいかどうかわからず、正しくてもなんの役にも立たない。

 当時の日本あるいは日本人は、物質的な幸せを得たのだろう。

 そして、代わりに、なにかを決定的に失った。

「いじめ」はたぶん、その代償だ。その変化は、めぐりめぐって、子どもたちに現れたということなのだろう、という気がする。

 50年後のこんにち、いじめは減るどころか、増えつづけている。

 この社会のなにが変わったのか、さっぱりわからない。

 1億総下流社会になったような気がするが、人々の心のなかでなにが進行しているのか、だれにもわからない。

 昭和40年代までの昔はよかった、といってもはじまらない。

 だれもわからないまま、いじめはなかったのであり、現在、だれもわからないまま、いじめが頻出しているのだ。

 なにが腹が立つといって、弱いものいじめをする人間ほど、腹の立つものはいない。

 弱いものをいじめて(いたぶって)平気な人間がいることが、信じられない。

 国も組織もおなじだ。

 学校でも、社会でも、ウクライナでも、ガザでも、ミャンマーでも、ウイグルでも、おなじだ。

 弱いものがいじめられる姿を見ることに、堪えられない。

 見て見ぬふりをして、生きていくのはきつい。

 見て見ぬふりじゃなく、最初からもう見ないで、罪悪感を抱えながら、いや、その罪悪感も振りはらって、生きていくしかないのか。

剣道部に所属して
真剣に取り組む日々

 小4で大分市に転校した。

 春日小学校という小学校に行ったが、5年のとき、転任してきた沖縄出身の幸地先生が剣道部を作り、わたしは5年6年と所属した。