竹田の人には申し訳ない。

 けれどわたしの竹田は、およそ70年まえの竹田なのである。

 魚町通りの駅よりのところに明治以来つづく「友修」という料理屋があり、死んだ兄はしきりにその名をいっていた。

 家族は竹田のあと、大分市に引っ越した。

 それ以来、わたしは一度も竹田に帰っていない。

 もう行くこともないか、と思う。

 大分市も記憶ということでいえば、竹田より濃密な記憶があるが、町全体の記憶としては竹田のほうが断然上である。

 都会というのはひ弱な記憶しか残さない。

 いま竹田は、水の町だという。家族で行った、入田という町の川の水が冷たかったことを覚えている。

 司馬遼太郎の『街道をゆく』で、司馬さんには竹田を通ってほしかった、というないものねだりの気持ちがある(大分県北部の「中津」には行っている)。

「ブラタモリ」でも、竹田に行ってくれんかなあ、と願ったものだ。

小中高で転勤を繰り返したが
1度もいじめられたことがない

 わたしは小学1年から中学1年までは大分の学校で、中2、中3は佐賀県、高1と高2は広島県、高3は長崎県の学校に行った。

 1953年(昭和28年)から1965年(昭和40年)までだ。

 わたしの記憶では、小中高を通じて、学校でのいじめは1回もなかったように思う。

 都会の学校ではあったのかもしれない。

 そんなに多くはなかったが、個人同士のいがみあいや、不良の弱いものいじめは当然あった。しかしそれでも、執拗(しつよう)ではなかった。

 ましてや小学生や中学生が自殺に追い込まれる、なんていう事態は、考えたことすらない。当時のわたしに、「自殺」という概念はなかった。

 いつの頃からか、いじめが社会問題になった。

 なぜそういうことが増えたのか、わからない。

 以前は、知らなければならないと思い、いくつかの事例を詳しく調べたりした。

 しかし、わたしはいじめの事件を、もう知りたくはない。知ったところで、なにもわからないし、どうすることもできず、ただ悲惨すぎるだけである。

 小学生や中高生の自殺があることが信じられない。